2011年1月1日 主イエス命名の日
 
『主イエスのみ名はなぜ大切か』
 
 みなさん、新年あけましておめでとうございます。日本の文化の中では、なぜか、この挨拶をしなければ一年が始まらないようになっています。しかし、私たちは今日、何のために集まって礼拝をしているのでしょうか。毎年1月1日は、キリスト教の暦で特別な祝日になっています。「主イエス命名の日」というのです。ですから今日は、元日礼拝でもありますが、もっと重要なことには、主イエス・キリストが「イエス」と名付けられたことを記念して、イエスさまのご降誕の意味をさらに深く考え、その恵みに与るための日なのです。
 クリスマスからお正月にかけて、私たちは、日本という社会における信仰のあり方について考えさせられる事態に直面します。11月末頃から、街はクリスマス一色に染められます。多くの家にイルミネーションが飾られ、商店街ではサンタクロースが歩き回ります。まるで、日本中がクリスチャンになったようです。ところがクリスマスを一夜明けると、街は完全に衣替えです。しめ縄や門松など、神道に由来する正月用品が溢れ、お正月一色に染まります。クリスマスのときには市民権を得ていたように思われたクリスチャンも、まわりがみな神社仏閣になびき、初詣に出かける中で肩身が狭くなって行くように感じます。それでもやはり、私たちは、初詣ではなく、教会に集い、単なる元日礼拝ではなく、「主イエス命名の日」の礼拝を守っています。私たちは日本社会においては少数派かも知れません。しかし、おそれず、クリスチャンとしての証しとして、そのことを大切にしたいと思います。
 さて昨年、常用漢字に196字追加されました。その主な理由は、多様化する人名を表すのに必要な漢字が足らないということでした。確かに、最近の名前は凝っています。教師をしていて、読めないことがしばしばあり、当人からは抗議を受けたりするのです。親はこどもに名をつけるときに、親の願いを込めて、それにふさわしい名前をつけます。「美しい子」と書いて「よしこ」というのは、代表的なものです。みなさん、いかがでしょうか。それぞれご自分の名前は、特別な意味をもっているのではないでしょうか。
 古代イスラエルやユダヤでも、「名前」は特別な意味を持ち、ある意味でその物や人の本質を表すとまで考えられていました。創世記の天地創造の場面では、神が人の話し相手としてさまざまな動物を与えられ、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」と書かれています。それはつまり、その物の「名前」が、即その本質であるということなのです。モーセがヤハウェの「名前」にこだわったのは、まさに「ヤハウェ」という名前(「私はある」という意味)が、神の本質を表していると考えられたからです。今日の旧約聖書は、モーセが十戒を再び与えられる場面ですが、そこでは、「主は雲の内にあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」とあります。私たちがお祈りの最後に、「主イエス・キリストのみ名によって」と言うのは、主イエス・キリストご自身、その方の業によって祈るという意味なのです。
 ですから、私たちの神は匿名ではありません。無名ではないのです。日本で良く言われる「神さま、仏さま」の一人ではないのです。漠然と「神」と訳されていますが、それは「ヤハウェ」であり、イエス・キリストであり、聖霊なのです。つまり、三位一体である主なる神を私たちは信仰している。その方に、礼拝を献げているわけです。最近カトリック教会は、「神である主」という訳語を用いることを決定したようですが、それも本来は同じ方を指し示した言葉です。私たちが神に祈るとき、匿名の神に祈るのではなく、モーセに自らを表され、イエス・キリストにおいて私たちにご自身を示された「あの方」に祈るのだということを心に留めたいと思います。
 イエスさまは、お生まれになって8日後に、ユダヤ教の慣習に従って「割礼」をお受けになり、名前を「イエス」と名付けられました。ルカ福音書によれば、それはマリアに対する受胎告知(「神の子」が生まれると天使がマリアに告げた)のときに、天使から与えられた名前でした。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1:30−31)「イエス」というのは、アラム語では「イエシュア」と発音し、「主は救い」という意味ですが、それほど珍しい名前ではありませんでした。イエスさまの代わりに釈放されたあのバラバもイエスという名前をもっていました。また、ヘブライ語では「ヨシュア」と発音されますので、モーセの後継者のヨシュアと同じ名前ということになります。しかし、「主は救い」という意味をもつ「イエス」という名前は、全人類の救い主であるイエス・キリストの本質を表すのにきわめてふさわしい名前であると言わなければなりません。
 この日、イエスさまはもう一つ大切なことを経験されました。割礼です。割礼は創世記17章において、アブラハムとの契約のしるしとして命じられた行為で、十戒に始まる律法よりも昔から存在していたユダヤ教の慣習でした。それは、神の救いがイスラエルにのみ及ぶというイスラエル選民思想の具体的な表現でした。すべての人々を救われるイエス・キリストがなぜ、そのような割礼をお受けになったのでしょうか。12月26日の降誕後第1主日の礼拝のときに、ガラテヤの信徒への手紙という新約聖書の文書が読まれました。そこにはこう記されています。「わたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」つまり、旧約聖書の時代、あるいは、呪いやまじない、さまざまな宗教や哲学のもとにいた「未成年の時代」には、私たちはそうした霊に対する奴隷であった。ユダヤでは律法の奴隷であった、というのです。ところが、神は御子イエス・キリストをこの世に使わされた。しかも、律法の下に生まれた者としてお遣わしになった。つまり、イエスさまは、私たちを律法の支配から救い出すために、私たちと同じ人間としてこの世に生まれ、割礼も受け、さらに洗礼も受け、人間としての苦しみや制限、悩みをすべて分かちあわれたというのです。そして、最後には私たちの罪をすべて担って、十字架上で刑死されたのでした。それが、イエス・キリストが私たちを救って下さる方法でした。倒れたこどもを助け起こすのに、冷たく腕組みをして、「さあ、立ちなさい」と命令する親がいるでしょうか(以前はそういう場合もあったでしょう)。こどもと同じ目線にまで身体を低め、手は貸さないでも、共に起ち上がる。それが愛に満ちた親の態度ではないかと、思うのです。神がわたしたちの悲惨な現状をただ傍観しておられる単なる超越者であったなら、天の高いところにじっと座って見下ろしておられるそれだけの方であったとしたら、キリストを私たちのところにお送りになることはなかったでしょう。あのような形で、受難の道を歩ませられることはなかったでしょう。
 もちろん、私たちは2000年前のユダヤ人と同じではありません。ユダヤ教の律法の下にいる訳ではありません。しかし、律法と同様に私たちを縛り付けているさまざまなこの世の価値観に支配されています。「人並み(?)の生活をしなければならない」「一流の大学に行かなければならない」「人生の成功者でなければならない」といった類の「must」がいかに多いことでしょう。もちろん、イエス・キリストを信じることによって、心の安らぎが得られ、強くなり、成功へと導かれることも多いでしょう。しかし、それが目的ではありません。まず、律法から解放されて自由になったことを確信したいと思います。パウロは今日の使徒書の中で、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」と教えていますが、私たちの行いの基準を常に、自分ではなく、神に、つまりイエス・キリストに合わせているでしょうか。自分の思いではなく、イエスさまの言葉と行いに合わせる、それが第一に必要なことだと思います。それは決して窮屈なことではありません。むしろ限りなく自由になることです。瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんは、世間の尺度から言えば、身動きできない不自由な生活を送っておられました。しかし彼は、イエス・キリストに出会って与えられた自由を次のように歌っています。
 神さまの大きな御手の中で
 かたつむりはかたつむりらしく歩み
 蛍草(ほたるぐさ)は蛍草らしく咲き
 雨蛙(あまがえる)は雨蛙らしく鳴き
 神さまの大きな御手の中で
 私は私らしく生きる
 イエスさまは、私たちを律法から、そして罪から解放するために、私たちと同じ道を歩まれ、神の前に自由になる道を示して下さったのです。それが「福音」(良い知らせ)ということの意味なのです。私たちは、よく聖書を読み、イエス・キリストの言葉と業をよく知り、聖書に親しみ、喜びをもってその事実を受け入れたいものです。