今日の福音書の箇所は、「あなたがたは地の塩である。」「あなた方は世の光である。」というみ言葉で有名です。クリスチャンとしての生き方、行いとはどういうものでなければならないかを、これほど明確に示したみ言葉はありません。私たちは、この世の中で、イエス・キリストの弟子として、ひと味違う塩となり、暗闇の中で輝く光とならなければならないのです。その上、塩は食物を腐敗させない、保存のためには欠くことのできない大切なものです。クリスチャンはかくあれかし、と私たちはこのみ言葉を大切にしてきました。 しかし、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」というところにくると、はてなと迷ってしまうかもしれません。それは、私たちがいつも聞いている「信仰のみ」「信仰義認」「信仰こそ大切だ」という教えとちょっと矛盾するように聞こえるからです。「立派な行い」によって神に認めてもらうというのは、「行為義認」「善行主義」ではないのか、そんな思いを持つかもしれないからです。そこで、今日は、キリスト教の教えの中で、「信仰」「行い」の関係についてご一緒に聖書の中から学んで参りたいと思います。 最近わたくしは、ずっと、「信仰によってのみ義とされる」(信仰義認)、信仰こそが大切だということをこの説教壇から語ってまいりました。これは、16世紀の宗教改革の根本原則の一つであり、聖公会を含むすべてのプロテスタントが共有している考え方です。しかし、この原則を理解するときに注意すべきことが二つあります。 一つは、信仰とは何かということです。信仰とは、頭で理解したり、信仰箇条を覚え込むことではありません。むしろ、神に対する人格的な信頼に基づいて、自然に、その関係の中に身を置くことであるといった方がよいでしょう。宗教改革の過程で一部のプロテスタントは、頭で信仰を理解させようとする過ちを犯してしまいました。そして、多くの人々を信仰から排除してしまったという苦い教訓があります。それにたいして今日のパウロの手紙は、一つのヒントを教えています。パウロはコリントへ行ったときに、「神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」と書かれています。これは一般には、直前に訪問したアテネにおける宣教がうまくいかなかった結果を踏まえて書かれたものといわれています。当時ギリシア世界の学問の中心地であったアテネを訪問したパウロは、そこでストア派とかエピクロス派とか呼ばれる哲学者たちと論戦を繰り広げた後、そうした論戦が不毛であったという反省をもって、次の訪問地コリントに向かうのです。いささか憔悴しきったパウロは、今度こそは信仰の言葉をもって語ろうと決意します。それが、「霊と力の証明」と呼ばれる宣教でした。パウロが教えているように私たちは、人の知恵によってイエス・キリストを知るわけではありません。知恵にあふれた言葉によって、神を信仰するようになるわけではありません。そうではなく、「霊」によって神が明らかにしてくださる真理、神のご計画を知ることが出来るのです。言い換えると、私たちは日ごとの生活の中で、また、教会生活の中で、心の中に示される神の言葉によって導かれ、真理に到達することができるのです。ご高齢の先輩が、毎日の生活の中で、祈るような気持ちで来るべき天国について思いを巡らすのもその一つでしょう。病床の中で、ふと神の恵みに気づくこともあるでしょう。毎日の仕事のストレスの中で、「明日のことまで思い悩むな」というみ言葉を示され、心がスーと軽くなることもあるでしょう。これらはみな、「聖霊」の導きによるものです。 ですから、私たちは、頭で考えて信じるのではなく、全身全霊で神を求める中で、神への信頼(信仰という言葉の本来の意味は「信頼」に近いのです)を獲得し、信仰へと到達するのです。それは、信仰箇条を覚え込むことによってでもなく、聖書を一言一句暗唱することによって到達するものでもありません。もちろん聖書をよく読むことは大切ですが、それを、自分の血と肉にすることが必要です。そしてそれは、毎日の経験の中で、聖霊の働きによって行われるものです。先主日の使徒書であるコリントの信徒への手紙の中で、パウロは「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」と書いています。つまり、信仰には能力や学問や地位は関係がない。むしろ、理論的にはよく理解できないけれども、ひたすら神を信頼する信仰こそが貴いのだということではないかと思います。 第二に、信仰義認、「信仰のみ」という原則を一面的に理解してはならないということです。パウロは信仰を重視いたしましたが、それは決して行いを軽視したということではありません。ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは、私たちは自由(律法からの自由、さまざまな束縛からの自由、罪からの自由)を得るために召し出された。私たちはこの自由を用いて、互いに仕え合わなければならないと教えています。そして「たゆまず善を行いましょう。」「すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して善を行いましょう。」と強調しています。つまり、神の側からの無償の愛に対する感謝の応答としての愛の実践です。信仰の実としての「良い行い」「愛の奉仕」です。それは、中世カトリック教会が教えていた「神の救いを得るための善行」「行為による義認」とは全く違うことがらです。救いを得るための善行、というのは下心のある行いであって、こんなことをしたら神に喜ばれ、褒められる、先祖も救われるという類の行いです。子供が親や先生の顔色をうかがって、大人の喜ぶことをしようというのとよく似ています。中世カトリック教会は、そうした人々の心を利用して「贖宥状」(免罪符と訳されていました)を販売し、大聖堂修理の資金調達さえ行ったのです。そのような下心のある行いではなく、心の底からわいてくる感謝に基づく、自然に内からわき出る行い。それが信仰の実としての良い行いではないかと思います。 一方、新約聖書の中の「ヤコブの手紙」には、行いの重要性が繰り返し強調されています。そのためか、ルターはこれを「藁の手紙」と呼んで軽視したと言われています。しかし、ヤコブの手紙が信仰を軽視しているわけでもありません。「行いの伴わない信仰はむなしい」と言っているだけです。ですから、パウロが行いを軽視したというのは間違いであり、ヤコブが信仰を無視しているというのも間違いです。信仰と行いは互いに補い合っています。ただ、どちらが先かというと、信仰が先行するということではないでしょうか。 そういう意味で、イエス様が、「あなたがたは地の塩である。」「あなた方は世の光である。」と言われたのは、非常に大きな意味を持っています。とくに、「地の塩になるべきだ」「世の光になるべきだ」と「〜でなければならない」というのではなく、「地の塩だ」「世の光だ」と言い切っておられるところが大切です。努力して、無理をして、「地の塩になろう」「世の光になろう」と努めなさい、というのでは律法主義と変わりません。そうではなく、神の愛を知った瞬間から、私たちはすでに「地の塩」「世の光」になっている。そのように作り替えられている。そこから自然に生み出される行い、それが食べ物の腐敗を防ぎ、味付けをし、人々に神の恵みを分かちあうのです。「キリストの香り」という言葉があります。私たちは、自然に内からわき出る「霊の実」としての「良い行い」をする中で、良い香りを放つことが出来ます。 イエス様がマタイ福音書の中で「律法の完成」といっておられるのは、そのことを教えておられるのではないでしょうか。福音記者マタイは、ユダヤ教との連続性を重んじているので、「律法の完成」などというのだ、という説もありますが、わたしは、外面的な掟であるユダヤ教の律法ではなく、心の中に刻み込まれ、心の中から自然に出てくる行いとしての新しい律法のことをイエス様は教えておられるのだと理解しています。だから、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言われるのです。自然に出てくる良い行いは、掟によって強制された行いよりも優れているはずです。私たちも、自然に隣人を愛し、兄弟姉妹を愛し、キリストの香りを放つことが出来ればと願っています。
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