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 喜びのおとずれ(顕現後第4主日)


 キリスト教会ではよく『福音』という言葉が用いられます。「ふくいん」と読み、決して「ふくおん」とは読まれません。でもプール学院の中学生に聖書を読ませると、初めはたいてい「ふくおんしょ」と読んでしまいます。しかし、テレビで「1ポンドの福音」というドラマが数年前に放送されてからは、みんなちゃんと読めるようになりました。英語ではGospel、もともとのギリシア語では「エヴァンゲリオン」とか「ユーワンゲリオン」とか読まれる言葉です。本来の意味は「喜びの知らせ」「喜びの訪れ」ということで、大昔には、例えば戦に出た軍隊から、戦勝の知らせを届けるようなときに用いられました。旧約聖書のイザヤ書52章7節に「いかに美しいことか/山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。」という一節がありますが、これはまさにその福音を知らせる伝令のことです。イエスさまのことを記した人々(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)は、イエスさまの到来とその教え、そして十字架上での死と復活こそが、わたしたちすべての人々にとっての「喜びの訪れ」だということで、その書き物に「福音書」という名をつけたのです。
 そしてその福音をもっとも分かりやすい仕方で、イエスさまご自身が説き聞かされたのが、今日の福音書の箇所です。イエスさまご自身による、いわば最高の説教ということができるでしょう。そこには、「…は幸いである」という文が8つ並べられています。文語体の聖書には、「幸いなるかな…」という美しい響きとリズムのある表現で記されています。「8つの祝福」と呼ばれ、昔の日本や中国では「八福」と呼ばれていました。英語では、「幸いである」という意味のラテン語から beatitudesと呼んでいるようです。
 聖書のこの箇所を読んでいると、すんなり心に入ってくるものもあります。例えば、「憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。」とか、「心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。」などはそうでしょう。素直に、本当だなと思えるし、そのことが実現するように願うのではないでしょうか。「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」とか「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」「平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。」というのも、これらの人々は困難に直面するであろうけれども、そのように祝福を受けてほしいという意味では、すんなりと受け止めることができます。
 しかし、もっと深いことが意味されているようで、頭を抱えてしまうような祝福もあります。それが、最初の二つです。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」がそうです。しかし、実はこの理解困難な祝福こそが、イエス・キリストの福音にとってきわめて大切な内容を含んでいるのです。本当に祝福される、「喜びの知らせ」とは何であるかを私たちに教えているのです。
 では「心の貧しい人々」というのは、いったいどういう人々でしょうか。日本で「心が貧しい」というと、「ハートがない人」「想像力や感性の乏しい人」「物事や他人に共感できない人」というような悪いイメージしかありません。「物質的に貪欲で、精神的な事柄を理解できない人」という意味でしょうか。ここでそういうことが言われているのでないことは絶対に確かです。そういう人が幸せなはずがないからです。聖書の中では「心が貧しい人」というのは、「打ちひしがれた中で、神に信頼を寄せる人」「へりくだった敬虔な人」を意味しています。それは、「高ぶって心が大きくふくれあがった人」「高慢な人」の対極を示しています。詩編51:19に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」とあり、34:19にも「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。」とありますが、この「砕かれた心」というのが近いのだろうと思います。それに対して、ルカ福音書18章11節で「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と誇らしげに祈るファリサイ派こそが、自分を大きくし、膨れあがった人間の罪の姿を示しています。むしろ、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』と祈った徴税人こそが神によって救われるのだとイエスさまは教えておられます。
 「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」というのも、言葉では分かるけれども、実際問題としては理解が難しいかも知れません。しかし、ここにこそ、イエスさまの福音の本質があるのです。さきほどの「心の貧しい人」とも関係するのですが、神さまは、悲しんでいる人、苦しんでいる人の近くにおられる。神さまは「弱く、小さな人々」にこそ、近づいてこられるのではないでしょうか。詩編147:3には、「打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」という句があります。また、イザヤ書にも「主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい/御自分の民の恥を/地上からぬぐい去ってくださる。」という神の約束が記されています。これらはすべて、悲しみの中でこそ神に出会うことができるという真理、福音を伝えています。
 もちろん、目の前で悲しんでおられる方に、「あなたは幸せですよ」などということを言うべきではありません。そのような場合には、ひたすらその悲しみを分かちあうあり方が求められるでしょう。しかし、苦しみと悲しみの中で神に出会った証しは、人々を限りなく感動させます。ハンセン病にかかり、その中でイエスさまに出会って救われ、慰めと喜びを受けた方の証しもその一つです。聖公会の菊池黎明教会(熊本県)の中山弥弘さんという方が、伝道集会で素晴らしい証をしておられますので、少しご紹介したいと思います。
「私が一番最初に福音を聞いたのは、ヨハネによる福音書第3章16節『神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためでる』という御言葉でした。その箇所を聖書でゆっくり読んでその福音に接した時に、自分を十字架につけた兵士、その他多くの人々に対して、イエス様は『父よ、彼らをお許し下さい。彼らは何をしているのか分からずにいるのです』とお祈りになっておられる箇所にふれて、何というすごい人だろうかと思いました。罪を犯して十字架の上で死んでいく強盗にもお許しをお与えになり、こんなすばらしい祈りをされる、断末魔の苦しみの中でも神の愛をお教え下さるイエス様の姿にふれた時、感激し、私たちは信ずるに足る神の子なればこそこんな祈りが出来るんだということを知って信仰に入り、現在に至っているわけです。
私は見えなくなったためにずいぶん行動が狭くなりました。その代わり聞くことは多くなりました。見るよりも聞くことによって深い深い真理を悟ることができるようになりました。神様がお与え下さった恵みは数限りなくて、全てを語り尽くすことは出来ません。神様はこのようにキリストを2000年前にこの世に遣わして、私たちに救いを確立して下さっています。それを私たちは『ありがとうございます』とただ信じてお従いするだけでいいのです。人間は知恵があり、頭が賢いためにあぁーでもない、こぉーでもない、そんなばかなというような思いを持って素直に従うことが出来ません。それ故に、イエス様は幼子のようにならなければ神の国に入ることはできないとおっしゃっておられます。大の男が何もかも全てを捨てて、赤ちゃんが母親の胸に抱かれてすやすやと眠るように、全てを神様の言いなりにして安んずるということは困難です。けれども、そのような状況に私たちを導かれます。それはこの世を終わって初めて、誰でもが意識をなくし、苦しんだりして最期を迎える、その時には何もかもこの世の全てを手放して、神の御懐にいだかれて神の国に入っていける状況にさせられるのです。」
 この中山さんの証しはまた、今日の使徒書であるコリントの信徒への手紙1章26節以下に私たちを導いてくれます。「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」私たちは、自分に知識があり、学問があり、ひとかどの人物であると思うとき、神によるこの選びから最も遠ざかります。自分を大きく見せ、他人を見下げる。ついには、神の地位にまで自分を高めることになってしまうからです。それが「罪」です。神の前で自慢げに祈ったあのファリサイ派の仲間になってしまうのです。そうではなく、いつも自分の小ささを自覚し、罪深い存在であることを認め、神の前で心を打ち砕かれる。そこにこそ、神は救いの手を差し伸べてくださるのです。そして、私たちも人生の中で、悲しみに打ちひしがれるときがあると思います。苦しさに耐えられず、命を絶とうとすることすらあるかも知れません。そのようなとき、私たちの心の中に、きっと「心の貧しい人々は幸いである」「悲しむ人は幸いである」というイエス様のみ言葉が響いてくるのではないでしょうか。ハンセン病の方たちは、苦しみの中でイエス様と出会い、本当の幸せ、本当の真理を与えられました。どんな苦しみにあっても、決して神様は私たちをお見捨てにはなりません。そのことを固く信じ、人生の荒波を乗り越えていきたいと思います。
2011年01月30日(日)   No.6
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 2011年1月1日 主イエス命名の日


『主イエスのみ名はなぜ大切か』
 
 みなさん、新年あけましておめでとうございます。日本の文化の中では、なぜか、この挨拶をしなければ一年が始まらないようになっています。しかし、私たちは今日、何のために集まって礼拝をしているのでしょうか。毎年1月1日は、キリスト教の暦で特別な祝日になっています。「主イエス命名の日」というのです。ですから今日は、元日礼拝でもありますが、もっと重要なことには、主イエス・キリストが「イエス」と名付けられたことを記念して、イエスさまのご降誕の意味をさらに深く考え、その恵みに与るための日なのです。
 クリスマスからお正月にかけて、私たちは、日本という社会における信仰のあり方について考えさせられる事態に直面します。11月末頃から、街はクリスマス一色に染められます。多くの家にイルミネーションが飾られ、商店街ではサンタクロースが歩き回ります。まるで、日本中がクリスチャンになったようです。ところがクリスマスを一夜明けると、街は完全に衣替えです。しめ縄や門松など、神道に由来する正月用品が溢れ、お正月一色に染まります。クリスマスのときには市民権を得ていたように思われたクリスチャンも、まわりがみな神社仏閣になびき、初詣に出かける中で肩身が狭くなって行くように感じます。それでもやはり、私たちは、初詣ではなく、教会に集い、単なる元日礼拝ではなく、「主イエス命名の日」の礼拝を守っています。私たちは日本社会においては少数派かも知れません。しかし、おそれず、クリスチャンとしての証しとして、そのことを大切にしたいと思います。
 さて昨年、常用漢字に196字追加されました。その主な理由は、多様化する人名を表すのに必要な漢字が足らないということでした。確かに、最近の名前は凝っています。教師をしていて、読めないことがしばしばあり、当人からは抗議を受けたりするのです。親はこどもに名をつけるときに、親の願いを込めて、それにふさわしい名前をつけます。「美しい子」と書いて「よしこ」というのは、代表的なものです。みなさん、いかがでしょうか。それぞれご自分の名前は、特別な意味をもっているのではないでしょうか。
 古代イスラエルやユダヤでも、「名前」は特別な意味を持ち、ある意味でその物や人の本質を表すとまで考えられていました。創世記の天地創造の場面では、神が人の話し相手としてさまざまな動物を与えられ、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。」と書かれています。それはつまり、その物の「名前」が、即その本質であるということなのです。モーセがヤハウェの「名前」にこだわったのは、まさに「ヤハウェ」という名前(「私はある」という意味)が、神の本質を表していると考えられたからです。今日の旧約聖書は、モーセが十戒を再び与えられる場面ですが、そこでは、「主は雲の内にあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言された。」とあります。私たちがお祈りの最後に、「主イエス・キリストのみ名によって」と言うのは、主イエス・キリストご自身、その方の業によって祈るという意味なのです。
 ですから、私たちの神は匿名ではありません。無名ではないのです。日本で良く言われる「神さま、仏さま」の一人ではないのです。漠然と「神」と訳されていますが、それは「ヤハウェ」であり、イエス・キリストであり、聖霊なのです。つまり、三位一体である主なる神を私たちは信仰している。その方に、礼拝を献げているわけです。最近カトリック教会は、「神である主」という訳語を用いることを決定したようですが、それも本来は同じ方を指し示した言葉です。私たちが神に祈るとき、匿名の神に祈るのではなく、モーセに自らを表され、イエス・キリストにおいて私たちにご自身を示された「あの方」に祈るのだということを心に留めたいと思います。
 イエスさまは、お生まれになって8日後に、ユダヤ教の慣習に従って「割礼」をお受けになり、名前を「イエス」と名付けられました。ルカ福音書によれば、それはマリアに対する受胎告知(「神の子」が生まれると天使がマリアに告げた)のときに、天使から与えられた名前でした。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(ルカ1:30−31)「イエス」というのは、アラム語では「イエシュア」と発音し、「主は救い」という意味ですが、それほど珍しい名前ではありませんでした。イエスさまの代わりに釈放されたあのバラバもイエスという名前をもっていました。また、ヘブライ語では「ヨシュア」と発音されますので、モーセの後継者のヨシュアと同じ名前ということになります。しかし、「主は救い」という意味をもつ「イエス」という名前は、全人類の救い主であるイエス・キリストの本質を表すのにきわめてふさわしい名前であると言わなければなりません。
 この日、イエスさまはもう一つ大切なことを経験されました。割礼です。割礼は創世記17章において、アブラハムとの契約のしるしとして命じられた行為で、十戒に始まる律法よりも昔から存在していたユダヤ教の慣習でした。それは、神の救いがイスラエルにのみ及ぶというイスラエル選民思想の具体的な表現でした。すべての人々を救われるイエス・キリストがなぜ、そのような割礼をお受けになったのでしょうか。12月26日の降誕後第1主日の礼拝のときに、ガラテヤの信徒への手紙という新約聖書の文書が読まれました。そこにはこう記されています。「わたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」つまり、旧約聖書の時代、あるいは、呪いやまじない、さまざまな宗教や哲学のもとにいた「未成年の時代」には、私たちはそうした霊に対する奴隷であった。ユダヤでは律法の奴隷であった、というのです。ところが、神は御子イエス・キリストをこの世に使わされた。しかも、律法の下に生まれた者としてお遣わしになった。つまり、イエスさまは、私たちを律法の支配から救い出すために、私たちと同じ人間としてこの世に生まれ、割礼も受け、さらに洗礼も受け、人間としての苦しみや制限、悩みをすべて分かちあわれたというのです。そして、最後には私たちの罪をすべて担って、十字架上で刑死されたのでした。それが、イエス・キリストが私たちを救って下さる方法でした。倒れたこどもを助け起こすのに、冷たく腕組みをして、「さあ、立ちなさい」と命令する親がいるでしょうか(以前はそういう場合もあったでしょう)。こどもと同じ目線にまで身体を低め、手は貸さないでも、共に起ち上がる。それが愛に満ちた親の態度ではないかと、思うのです。神がわたしたちの悲惨な現状をただ傍観しておられる単なる超越者であったなら、天の高いところにじっと座って見下ろしておられるそれだけの方であったとしたら、キリストを私たちのところにお送りになることはなかったでしょう。あのような形で、受難の道を歩ませられることはなかったでしょう。
 もちろん、私たちは2000年前のユダヤ人と同じではありません。ユダヤ教の律法の下にいる訳ではありません。しかし、律法と同様に私たちを縛り付けているさまざまなこの世の価値観に支配されています。「人並み(?)の生活をしなければならない」「一流の大学に行かなければならない」「人生の成功者でなければならない」といった類の「must」がいかに多いことでしょう。もちろん、イエス・キリストを信じることによって、心の安らぎが得られ、強くなり、成功へと導かれることも多いでしょう。しかし、それが目的ではありません。まず、律法から解放されて自由になったことを確信したいと思います。パウロは今日の使徒書の中で、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」と教えていますが、私たちの行いの基準を常に、自分ではなく、神に、つまりイエス・キリストに合わせているでしょうか。自分の思いではなく、イエスさまの言葉と行いに合わせる、それが第一に必要なことだと思います。それは決して窮屈なことではありません。むしろ限りなく自由になることです。瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんは、世間の尺度から言えば、身動きできない不自由な生活を送っておられました。しかし彼は、イエス・キリストに出会って与えられた自由を次のように歌っています。
 神さまの大きな御手の中で
 かたつむりはかたつむりらしく歩み
 蛍草(ほたるぐさ)は蛍草らしく咲き
 雨蛙(あまがえる)は雨蛙らしく鳴き
 神さまの大きな御手の中で
 私は私らしく生きる
 イエスさまは、私たちを律法から、そして罪から解放するために、私たちと同じ道を歩まれ、神の前に自由になる道を示して下さったのです。それが「福音」(良い知らせ)ということの意味なのです。私たちは、よく聖書を読み、イエス・キリストの言葉と業をよく知り、聖書に親しみ、喜びをもってその事実を受け入れたいものです。
2011年01月01日(土)   No.3
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礼拝でのメッセージ

(しばらく礼拝でのメッセージの掲載をお休みしていましたが、再開します。月に一度程度の割合で掲載します。)

2010年1月1日「主イエス命名の日」(岩城司祭)

2010年12月25日「降誕日(クリスマス)」(岩城司祭)

2010年10月17日「聖霊降臨後第21主日」(岩城司祭)

2008年12月24日「降誕日前夕」(岩城司祭)

2008年12月14日「降臨節第3主日」(岩城司祭)

2008年7月6日「聖霊降臨後第8主日」(岩城司祭)

2008年6月22日「聖霊降臨後第6主日」(岩城司祭)

2008年5月11日「聖霊降臨日」(岩城司祭)

2008年4月27日「復活節第6主日」(岩城司祭)

2008年4月6日「復活節第3主日」(岩城司祭)

2008年3月23日「復活日(イースター)」(岩城司祭)

2008年2月17日「大斎節第2主日」(岩城司祭)

2008年2月10日「大斎節第1主日」(岩城司祭)

2008年2月3日「大斎節前主日」(岩城司祭)

2008年1月27日「顕現後第3主日」(岩城司祭)

2008年1月13日「顕現後第1主日・主イエス洗礼の日」

2008年1月6日「顕現日」(岩城司祭)

2007年12月24日「クリスマスイブ礼拝でのメッセージ」(岩城司祭)

2007年12月16日「降臨節第3主日」(岩城司祭)

2007年11月25日「聖霊降臨後最終主日・キリストによる回復(降臨節前主日)」(岩城司祭)

2007年11月11日「聖霊降臨後第24主日」(岩城司祭)

2007年10月7日「聖霊降臨後第18主日」(岩城司祭)

2007年9月23日「長寿祝賀感謝礼拝」(岩城司祭)

2007年8月19日「聖霊降臨後第12主日}(岩城司祭)

2007年8月5日「聖霊降臨後第10主日」(岩城司祭)

2007年7月29日「聖霊降臨後第9主日」(岩城司祭)

2007年7月15日「聖霊降臨後第7主日」(岩城司祭)

2007年7月1日「聖霊降臨後第5主日」(岩城司祭)

2007年6月10日「聖霊降臨後第2主日」(岩城司祭)

2007年5月27日「聖霊降臨日」(岩城司祭)

2007年4月22日「復活節第3主日」(岩城司祭)

2007年4月8日「復活日」(岩城司祭)

2007年4月1日「復活前主日」(岩城司祭)

2007年3月18日「大斎節第4主日」(岩城司祭)

2007年2月11日「顕現後第6主日」(岩城司祭)

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2006年12月25日「降誕日」(岩城司祭)

2006年12月24日「降臨節第4主日」(岩城司祭)

2006年12月17日「降臨節第3主日」(岩城司祭)

2006年12月3日「降臨節第1主日」(岩城司祭)

2006年11月13日「浜寺朝祷会2周年記念礼拝」(岩城司祭)

2006年11月5日「諸聖徒日・逝去者記念礼拝」(岩城司祭)

2006年10月22日「聖霊降臨後第20主日」(岩城司祭)

2006年10月1日「聖霊降臨後第17主日」(岩城司祭)

2006年9月10日「聖霊降臨後第14主日」(岩城司祭)

2006年8月13日「聖霊降臨後第10主日」(岩城司祭)

2006年8月6日「主イエス変容の日」(岩城司祭)

2006年6月11日「聖霊降臨後第1主日・三位一体主日」(岩城司祭)

2006年6月4日「聖霊降臨日」(岩城司祭)

2006年5月25日「昇天日」(教区婦人会主催)(岩城司祭)

2006年5月21日「復活節第6主日」(岩城司祭)

2006年5月7日「復活節第4主日」(岩城司祭)

2006年4月30日「復活節第3主日」(岩城司祭)

2006年4月23日「復活節第2主日」(岩城司祭)

2006年4月16日「復活日」(岩城司祭)

2006年4月9日「復活前主日」(岩城司祭)

2006年3月19日「大斎節第3主日」(岩城司祭)

2006年2月26日「大斎節前主日」(岩城司祭)


2006年2月19日「顕現後第7主日」(岩城司祭)


2006年2月12日「顕現後第6主日」(岩城司祭)

2006年1月29日「顕現後第4主日」(岩城司祭)


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