22イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。
23すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
24「狭い戸口から入るように努めなさい。
言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。
25家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。
26そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。
27しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。
不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。
28あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。
29そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。
30そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
新共同訳聖書
朝から雨。あさがおは水玉を宿して、昼過ぎまで咲いていました。
◆今日の福音書は「救われる人は少ないのでしょうか」という問いに、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と言います。この努めるという言葉はもともと「運動競技者が勝利を得ようとして身体を鍛える努力」という意味です。自分を鍛錬して鍛えなさいということなのです。本田哲郎神父は「狭い戸口からなんとか入るように自分と格闘しなさい」という表現にしています。狭い戸口とは何を意味しているのでしょうか。イエスに従う道であるのでしょうか。イエスの教えの実践でしょうか。イエスの語った福音の道を歩むために自分と格闘しながら身に付けなさいとも読むことが出来るでしょう。イエスの言葉を何回も読み直して求められていることが何であるのかをそれぞれ見つけたいものです。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦