9イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。 10収穫の時になったで、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。 11そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。 12更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。 13そこで、ふどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』」14農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。 殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』15そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。 16戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」 彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。 17イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。
『家を建てる者の捨てた石、
これが隅の親石となった』
18その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」 19そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。
新共同訳聖書
3月17日の大斎節研修プログラム第5回は立教池袋中高チャプレンの市原信太郎司祭の「聖なる三日間の礼拝について-その豊かさと実践-」でした。聖なる三日間の礼拝は古くから大切に守られてきたが、そこには歴史的に複数の意味が込められていること。その意味を大切にしながら、自由な礼拝も行われていることなどを映像や聖歌(自らギター伴奏)なども交えながら話されました。
◆本日の福音書で「建築家のすてた石、これが角の首石となった」とのイエスの発言が出てきます。人からは捨てられ、侮られ、迫害されたが、神によって認められ、尊い役割を担わされた人の比喩になっています。神の愛する息子が農夫たちによって殺されたこと、つまり、イエス・キリストの十字架は、その「驚くべき神の御業」の完成です。十字架は、まことに、滅び行く者には愚かで失敗のように見えますが、救いにあずかる者には絶大な神の栄光を現すのです。それは、滅び行く者には隠されていますが、救いにあずかる者には明らかに現されているのです。私たちは、今日、その「神の驚くべき御業」を聞いているのです。十字架に向けての歩みが始まります。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦