1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。
2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。
3決してそうではない。
言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。
4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。
5決してそうではない。
言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。 木の周りを掘って、肥やしをやってみます。
新共同訳聖書
大斎節研修プログラム第3回はカトリック豊四季教会信徒の白石仁美さんによる「神様は生きて働いておられる」。白石さんは大震災直後から釜石市を中心に被災者の傾聴や支援者のカウンセリング及び研修に従事されていらっしゃいます。震災で深い悲しみを負った人々の内に、ともにおられる神様と出会い、むしろ自らが癒されると語られました。
◆今週の福音書は「悔い改める」が語られています。悔い改めるは教会用語としてよく知られている言葉です。しかし、何を悔い何を改めることなのでしょうか。辞書によれば「過去のあやまちを反省して、心を入れかえる。」ということになります。けれどもいくら真摯に反省してみても気づくことは少ないように思います。聖書の悔い改めるという言葉は「メタノイア」ですが、本来「視点の転換」で判断の道筋を変えるということで「視点を移す」ことです。同時に「痛みに共観する」という意味が加わっています。従って「悔い改める」という言葉が示すのは人の痛みに共観できるところ、抑圧された人々の立つところということになります。そこから見直すことで福音が何かということがわかるようになることを表しています。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦