牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦
信仰の道に入ろうと思われたのはどういう経験によってでしょうか。ある人は学校の先生に勧められたり、あるいはチャプレンが素敵でチャプレンのような生き方をしてみたい、というような出会いがあった方もいらっしゃるでしょう。
私の場合は聖書を読んで、というより教会の牧師さんたちが素敵な生き方をしていて「あのように生きることが出来たらいいなぁ」ということで洗礼を決意したように思います。
キリスト教と出会って信仰の道を歩もうと決心したときに、聖書を一所懸命読まれた経験を思い出す方も多いことでしょう。聖書は難しいので意味を探ることに何度も挫折したこともあるでしょう。聖書が語ることと教会で教わることが一致せずに悩んだこともあるかもしれません。そのような時に私たちが戻るところはやはり「聖書」でしょう。
教会入口の花壇に植えられた
フウセンカズラが風にゆれます
イエスの生き方に目を向けると「公正」とか「中立」というような姿勢ではないことに気づかされます。私は神様は誰にも公正な方だから中立だと勝手に思っていました。けれどもイエスの生き方は「公正」とか「中立」とは違うようです。イエスは生まれと育ちが徹底的に弱さの中にありました。祝福されない誕生でありました。それはヨセフとマリアが故郷に戻っても宿屋にすら泊まれずに出産したことからわかります。また養い親は「大工」ではなく「石切工」で最も貧しい家庭でありました。 その日の食事を欠く家庭であったのでしょう。主の祈りで「日ごとの糧を与えてください」と祈ることからもわかります。イエスの感性は徹頭徹尾弱い立場の人々に視線が向けられています。福音書に記されたイエスの歩みはそのことを表しています。 キリスト者として生きることを確認するとき、私たちはこのイエスの人々に向ける視線の前にどのような人々がいるのかということと、その視線を支える考え方(教え)が何であるのかを学ぶことが大切なことになるのでしょう。