日本聖公会 聖マーガレット教会
〒167-0054 東京都 杉並区 松庵1-12-29
TEL 03-3334-2812
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生まれつきの盲人をいやす
1さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
2弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。
本人ですか。それとも、両親ですか。」
3イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神の業がこの人に現れるためである。
4わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。
5わたしは、世にいる間、世の光である。」 6こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。
7そして、「シロアム-『遣わされた者』という意味-の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
8近所の人々や、彼が物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。
9「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。
似ているだけだ」と言う者もいた。
本人は、「わたしがそうなのです」と言った。
10そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、11彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」
12人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。
ファリサイ派の人々、事情を調べる
13人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。
28そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。 29我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 30彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 31神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 32生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことかありません。 33あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 34彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。
ファリサイ派の人々の罪
35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。
新共同訳聖書
教会入口の小花壇
◆今週の福音書は「盲人が癒される、目が開かれる」奇跡が描かれています。ヨハネ福音書はユダヤ教からの批判や攻撃から教えを守り、信仰を励ますことが目的です。目が見えるようになる奇跡は、奇跡を受けた本人が「あの方」「預言者」「神のもとから来た」と言い、ついには「主よ」と告白するに至ります。迫害を通してイエスと出会うのだとヨハネ福音書は1世紀末の教会の置かれた状況と重なります。ヨハネ福音書は信じる者たちを励ましているのでしょう。奇跡それ自体だけに目を向けるのではなく、人々と関わり続けようとするイエスに目を向けて歩み、イースターを迎えたいものです。
◆ 今年の聖マーガレット教会の大斎テーマは「宣教の原点に立とう」です。毎主日1時15分から大斎プログラムが組まれています。4月12日まで、毎週土曜日に「十字架の道行」が行われています。是非ご参加ください。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦
高橋顕司祭(聖三一教会・聖十字教会牧師)
◆本日の大斎プログラムは交換説教で聖マーガレット教会を訪問された、高橋顕司祭によるお話「開かれる」で、
大斎節のテーマである「宣教の原点」として「開かれる」ことの大切さを学びました。
高橋司祭のお話
◆私たちの教会での日頃の働きを見ていると、教会の中のことばかり考えて、近隣のことにはあまり意識が及んでいません。関わりもありません。近隣は教会とは別世界のようです。
◆かつて、司牧したある教会で、それまで恒例だったクリスマスコンサートを開けなくなってしまったことがありました。そこで、青年有志とクリスマスにゴスペルの集いを企画したところ、教会員の方たちも、賛同して当日いらっしゃる方のために、クッキー作りなどを引き受けてくれました。皆で手分けをして、近隣にもお知らせしました。当日は、驚いたことに170名もの方が参加され、大イベントになりました。教会員よりも多い、100人以上の近隣の方が出席してくださいました。
さらに驚いたことに、翌年のバザーにも、品物が足りないくらい、大勢の人が来場してくれました。一度訪れた教会は、敷居がとても低くなるのです。
「私たちの教会のやり方があるから」、「いつものやり方があるから」と、内に閉じていると外にも閉じてしまうことになります。
教会がまず「何かやってみようよ、ゴスペルの集いをやってみようよ、近隣の方も招いてやってみようよ」と内にまず開かれた時、外にも開かれたのです。
◆阿佐ヶ谷の聖ペテロ教会でも同じような体験をしました。
阿佐ヶ谷にはジャズストリートという催しがあります。期間中、街中がジャズの響きに包まれます。私が聖ペテロ教会を司牧していたころ、不思議なご縁で、教会をジャズストリートのパブリック会場に使わせて欲しいと頼まれました。教会委員会に提案すると、「礼拝をお献げする大切な教会をこのような目的に使って良いのか」とか、さまざまな問題を心配する声もありましたが、「地域のためにお貸ししましょう」ということで了解が得られました。教会を地域に開放することになると、教会員の方も様々なアイデアを出して、出演者の便宜をはかり、イベントに協力してくれました。私も、ジャズストリートの実行委員となり、副委員長を4年ほど努めました。
ある日、ふと立ち止まった、駅前交番の地域案内地図の電光表示の中に聖ペテロ教会が加えられていることに気がつきました。依頼した覚えもなく、地域の主要施設の案内に限られた公共の案内板に、聖ペテロ教会が表示されていることを不思議に思い、交番の警官に尋ねると、「ジャズストリート期間中、教会への、道を尋ねてくる人があまりに多いので地図に加えた」とのことでした。
教会が開かれると地域を巻き込むのです。内に開かれた教会は、外にも開かれるのです。外に閉ざされた教会は、内にも閉ざされているのです。
◆内に閉じていた旧約の世界を、イエスさまが内側を開き、旧約の壁を開いたから、その教えは世界に開かれたのです。
聖書の4つの箇所から「開かれる」を学んでみましょう。
?マタイによる福音書3章13-17節:イエスさまが洗礼を受ける場面で、16節に「そのとき、天がイエスに向かって開いた」と書かれています。
イエスさまの本格的なお働きは、30代のたった3年間ほどの活動でした。それが世界の宗教となったのです。その初めに、イエスさまは洗礼者ヨヘネから洗礼を受けます。ご自身が救い主であるにも関わらず、救い主を待ち望む人々と一緒に洗礼を受けたのです。その時、天が開かれたと記されています。神さまが、神さまの方から、開かれたのです。救いの世界にさあ来なさいと。だから、私たちも神さまに門を開き、共に歩むことが求められているのです。
?ルカによる福音書11章5-13節:真夜中に友達の家にパンを借りに行く人のたとえ話が書かれています。
ルカによる福音書では、この前の、11章1~4節でイエスさまが弟子たちの求めに応じて祈りを教えます。それは今日まで引き継がれ、私たちが大切にしている「主の祈り」です。しかし、単に機械的に「主の祈り」を祈るだけではいけないと思われたのでしょう、続いてこの5-13節にあるたとえを語られています。ここには、しつように頼めば必要なものが与えられると書かれています。この「しつよう」は原文にしたがえば、「恥も外聞もなく」ということです。神様に執拗に頼むこと、それほど強く神さまに心を開くことが大切だと、イエスさまは教えています。
?ルカによる福音書19章1-10節:徴税人ザアカイの話
当時、ローマに支配されていたユダヤでは、ローマに税金を収めていましたが、その税金をローマに代わって取り立てるのは、同じユダヤ人である、徴税人と呼ばれる人たちでした。彼らは、人々から、本来の税金より、高額の税を取立て、差額を自分たちの収入にしていました。徴税人は、ローマの代行者として、ユダヤの人々からは汚れた仕事とみなされていましたし、その税の取立ての厳しさもあって、大変に嫌われていました。金銭的には富んでいましたが、皆から軽蔑され、いつも仲間はずれでした。
この物語に登場するザアカイは、徴税人の頭でしたから、大変な金持ちだったでしょう。しかし、皆から嫌われいつも孤独でした。そんなザアカイが住む、エリコの町にイエスさまがやってきます。ザアカイは噂で聞いた救い主のイエスさまにお会いしたいと思います。自分の孤独が癒されるかもしれない、せめて一目イエスさまを見たいと思ったのでしょう。しかし、背の低いザアカイには群衆に囲まれたイエスさまを、見ることができません。そこで、通りを先回りして、いちじく桑の木に上ります。
すると信じられないことが起こります。イエスさまが上を見上げて、「ザアカイ、急いで降りて来ないさ。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われたのです。みなが驚く中、イエスさまは、この嫌われ者のザカイの家を訪ねます。この日、ザアカイは自分の内に開きます。自分のあるがままの姿に開いたのです。そして改心し、財産を貧しい人々に施し、二度と不正をしないと約束します。イエスさまは「今日この家に救いが来た」と言われます。この家とは、ザアカイが、生き住んでいる生活の場です。そこに救いが来たとイエスさまは言われるのです。これほどうれしいことは無かったと思います。ザアカイは自分に開いたのです。「どうせ自分は徴税人だ」と思って閉ざしていた心を内側に開いたのです。その時、自らの生活の場に福音が訪れたのです。
?使途言行録2章1-13節:聖霊が降る話
ペンテコステの聖霊降臨の場面です。弟子たちの上に、聖霊が下ったのです。聖霊に満たされて、他の国々の言葉で、霊が語らせるままに話し出します。この時、イエスさまの教えはユダヤを超えて世界中の人々に開かれます。外に開いたのです。
◆宣教の原点に「開く」ことがあります。神さまがまず自ら開いて、招いてくださったのです。だから、私たちも自分たちの内にある門を開き、神さまの招きに応え、そして外に向かって開いていくのです。