昨年、本屋で見つけたのが大江健三郎さんの「言い難きうめきもて」というエッセー集でした。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」
うめくとは何でしょうか。辞書を開くと「痛さや苦しさのあまり、低い声をもらす」とあります。私たちは病気を含めて様々な「うめき」に身を置くことがあるでしょう。人には言えないようなことも多いでしょう。人は思いがけないことを体験させられます。病気になることや人間関係の破綻、あるいは様々な挫折もあるでしょう。将来への不安や解決の手がかりを見いだせないこともあるでしょう。人生の様々な事柄で「うめき」しか出せないようなことがあるのです。
釜石の仮設住宅で、あるお宅の前に今年はスイカが実っていました
東日本大震災の被災者の皆さんの「うめき」は全てのものが流されてしまい、愛する家族や友人を失い、大地が破壊され、生きていく術も失う。しかも原発の事故によって何世代にも亘って不安の中を生きていかなければならない「うめき」でもあるのでしょう。東日本の被災地に身を置いてみると、何もかもなくなってしまった人間がどのように生きていけばいいのかと呆然と立ち尽くす以外に何が出来るだろうかと思わざるを得ません。全被造物がうめいているというロマ書の記述が重なってきます。
またキリスト者は信仰者であるがゆえに「うめき」を発することがあるでしょう。神の教えに近づきたいと願えば願うほどそのように生きられないことを実感することさえあるのです。
パウロは「誰がわたしたちを罪に定めることができましょう。
死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです。」と言うのです。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦