八日に私たちはイエスさまのご復活を祝う礼拝をささげました。大勢の方々が礼拝に連なり、喜びを分かち合う礼拝となりました。クリスマスのときは日本中が「キリスト教国?」と錯覚しそうなくらい街はクリスマスのイルミネーションで飾り立てられますが、イースターは殆ど取り上げられることがありません。クリスマスカードがどこにでも売っているのに、イースターカードは殆ど売っていません。教会の習慣でも似たような状況ではないでしょうか。クリスマスカードを交換する習慣はあるのですが、イースターカードをいただいた体験はあまりないのではないでしょうか。なぜこんなに違うのでしょうか。
クリスマスカードに描かれるような分かりやすさがイースターにはないのでしょうか?マグダラのマリアとヤコブの母マリア、サロメがイエスさまに油を塗りに香料を買って出かけます。墓を塞いである大きな石を誰が転がしてくれるのかと心配しながら行ってみると既に転がしてあります。墓の中に入ってみると白い衣の若者がいて、とても驚きます。あの方は復活されてここにはいないと言います。「あの方はあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と言われて震え上がって逃げてしまい、誰にも言わなかった、と記されています。イエスは確かに十字架上で死なれた。みんなで香油を塗り墓に納めた。けれどもイエスはいない。神の使いが語ったことが何であるのかも理解出来なかったのでしょう。イエスの弟子たちもそして周りの人々も十字架から降りてくることも出来ず、神からの援助もなく、「エリ エリ レマ サバクタニ」と悲痛な叫びを唱えたイエスの十字架上の出来事を敗北と受け止め、「イエスは死んだ」と誰しもが思ったことでしょう。ローマの支配者もイスラエルの人々もそのように思っていたのでしょう。イエスがあれほど「復活」を語っていたのに死んだ者が生き返る?と誰も考えることは出来なかったのです。ですから復活の朝のこの女性たちも恐ろしくなり、逃げ帰ったのでしょう。
復活の難しさがここでも語られています。空の墓も復活に結びつくとは限らないのです。死でもってすべてが終わると言う私たちの常識は神が介入されたということを受け入れなくさせているのかも知れません。神が私たちの心の目を開いてくださることによって復活にたどりつくことが出来るのではないでしょうか。空の墓は信仰を生み出すとは限りません。聖書が示しているとおりです。
信仰は事実を見つめる目とは違うのだとマルコは言っているようです。
牧師 司祭 バルナバ 前田 良彦