2019年8月4日(日)
聖霊降臨後
第8主日
み言葉と勧話
ルカによる福音書 12章13-21
13群集の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」 14イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」 15そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。 有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」 16それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 17金持ちは、『どうしよう。 作物をしまっておく場所がない』と思いを巡らしたが、18やがて言った。『こうしよう。 倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 21自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」
日本聖書協会 新共同訳聖書
勧話
本日は、日曜学校の幼稚化のお友達が一緒に礼拝を捧げてくれていますから、まず最初に、子どもたちにむけて、短くお話をさせていただきます。今日の福音書の言葉は、ちょっと難しいね。イエス様のお話を聞いていたある人が、「私のお兄ちゃんがお金を独り占めしてしまっているので、僕にも分けてくれるように、お兄ちゃんに注意してください」と、イエス様に相談に来ました。イエス様は、その人の相談には直接答えずに、その場所にいたたくさんの人に、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」って言われました。「貪欲」っていうのは難しい言葉だね。貪欲ってわかるかな?貪欲というのは「欲張り」っていう意味です。みんなも、公園や幼稚園、保育園でお友だちと遊ぶことがあると思います。そんな時に、誰か他のお友だちが遊んでいるおもちゃで、自分が遊びたいからといって、そのおもちゃを無理矢理に取り上げたら、そのお友だちはどう思うかな?。きっと悲しくねるよね。そうなったら、どう思う?「取り上げたおもちゃで遊べるから楽しい?」そうじゃないよね。きっと、楽しくないよね。だって、お友達がかなしんでいるんだもの。神様は「欲張ってはいけないよ。そんなことをしても、本当の幸せにはなれないよ」って言われています。みんなも、そのおもちゃで遊びたいなって思う時に、お友だちと譲りあって、仲良く遊んでくださいね。そういう子どもたちのことを神様は大好きなんだよ。優しい心で、お友だちや、妹や弟、お兄ちゃんやお姉ちゃんと仲良くしてください。では、ひとことお祈りします。いつも、たくさんの良いものを与えてくださる神様、きのうからのお泊まり会の間、私たちを守ってくださり、ありがとうごさいます。どうか、いま聞いた聖書のみ言葉を覚え、私たちが、お友だちや家族と仲良く生活していくことができますように。
私たちの心の中に優しさと思いやりの心を芽生えさせてください。このお祈りをイエス様のお名前によって、神様にお捧げいたします。 アーメン
それでは、改めまして、先ほどお読みいただきました福音書についてご一緒に考えてまいりたいと思います。本日の福音書には「『愚かな金持ち』のたとえ」という見出しが付けられています。財産に関わる問題として、「貪欲」が取り上げられています。遺産をめぐって兄弟や親族が争い合う姿を、マスコミの報道や身近な人の出来事として耳にすることがあります。こういった話を耳にするたびに、私には縁のない話だとあまり関心をもっていませんでした。しかし、数年前に父が神様の身許に召され、我が家も「遺産相続」の問題に直面させられました。我が家の場合、母と姉、私の3人で相続することになったのですが、幸いなことに争うほどの財産がありませんでしたから、分割を巡って家族の中に争いが起きることもありませんでした。しかし、親族の人数が多かったり、財産が多い方の場合は大変なことになるのだろうなと、以前よりは身近な問題として意識するようになりました。
実際のところ、生きていくためには「お金」は必要です。全くの無一文で生きていくことはできません。ですから相続のような場面に直面した時に、体裁をつくろったり、善人ぶった見栄を張ったりといった綺麗事ではなく、「貰えるならできるだけ多くの財産を分けてもらおう」と、「欲」を剥き出しにした争いが繰り広げられるのも、当然といえば当然のことなのでしょう。現代は勿論のこと、福音書の書かれた時代においても遺産を相続するということは正当な権利として認められていました。そして、この権利は基本的には長男に認められていたのです。ですから、次男、三男たちが遺産相続について律法学者や祭司に相談して調停してもらうことがあったのだそうです。今回の場合もそのような事だったのでしょう。
私たちは自身の生活がより豊かなものになるように努力をします。一生懸命働いてお金を稼ぐこと自体は悪いことではないでしょう。一生懸命働くことは勿論ですが、効率的に利益を追求することも悪いことではありません。聖書にも「お金持ちであることは罪だ」といったことも書かれていません。イエス様が十字架の上で亡くなった時に、墓に葬ったのは、裕福なアリマタヤのヨセフでした。また、キリスト教をユダヤから外の世界へと広めた、パウロの伝道を助けたのは、女性実業家のルデヤでした。「お金」を持っている事自体は善でも悪でもないのです。
イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。(15節)」と仰っています。イエス様は「愚かな金持ち」との譬えを話されます。その人は、大きな農場の所有者で大金持ちでした。大豊作になって収穫した穀物を入れる蔵は一杯で、入れることが出来ないほどの収穫になりました。そこで、いまある蔵を壊して大きい蔵に建て替え、穀物や財産をしまいこもうと計画したのです。そして、これから何年先も生きていくだけの貯えが出来たので、ひと休みして食べたり飲んだりして大いに楽しもうと考えました。ここまで読んできて「私がこの農場の所有者だとしたら同じように考えるだろう」と思われる方もいらっしゃることでしょう。「一生懸命に働いて、その成果として富を築くこと、そして、その富で豊かな生活をすることのどこが悪いのだ」という考えです。誰か他の人が労働の成果として稼いだお金や財産を奪い取って、贅沢三昧をしようというのではなく、私が一生懸命働いて、その成果として得た私の財産を、私がどのように使うのも自由だということです。また、最近ニュースにもなりましたが、老後の生活にために、年金以外に2,000万円または3,000万円が必要だと言われています。将来に備えて貯蓄を心がけるようにしている方も少なくないでしょう。貯蓄することは、むしろ堅実な生き方であるとさえ考えられます。
しかし、イエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。(15節)」と仰っているのです。また、神様は「愚か者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前の用意したものは、いったいだれのものになるのか。(20節)」と仰っています。
勿論、私たちの命がいつまで続くのか、いつまで健康で働くことができるのか、まさに神様のみがご存知のことです。譬え話をいま一度読み返してみたいと思います。譬えの冒頭に「ある金持ちの畑が豊作だった。(16節)」とあります。そして豊かに実った作物を貯蔵するために蔵を建て替えました。蔵を建て替えるだけの財力は、この農場主の経営手腕の賜物なのですが、豊作だった理由はどうでしょうか。豊作になった理由は、いかに金持ちの農場主でも自らの努力ではどうにもできません。豊作だったのは天候に恵まれたからです。つまり、すべてが自分の努力で成し得たと誤解しているに過ぎないのです。神様の祝福とお恵みによって豊作になったという事実が見えなくなってしまったのでしょう。人間のもつエゴがここにあるのではないでしょうか。豊作ならば自分の努力の成果、不作ならば天候を悪くした神様のせいということです。
私たちは社会的に成功しようと努力をします。そして実際に成功して財産を得ると、それを自分ひとりの力で得たものであるかのように錯覚してしまいます。勿論、才能や努力によって得たのも事実ですが、その才能を育てることができた環境、また、その努力が認められた機会というものは、神様によって与えられたものなのではないでしょうか。それを忘れるとき、人は高慢になり「神様の助けがなくても大丈夫、やっていける」と思い込んでしまいます。しかし、実際は神様が私たちにすべてのものを与え、私たちを生かしてくださっているのです。
「全てのものは主の賜物。私たちは主から受けて主に献げたのです」ご存知の通り聖餐式の奉献の祈りの言葉です。暗唱して、祈祷書を見なくても唱えることができる方も多いことと思います。私たちは毎週の聖餐式でこの祈りを唱えていますが、心からの言葉となっているでしょうか。すべての良いものは、神様からの賜物であるということを忘れるとき、人は果てしなく利己的になります。心の中で「私が…(努力して稼いだお金)」「私の…(自由になる財産)」ということが一番になっていることがあります。良いものを他の人と分かち合うという思いが消え、「わたしが…」「わたしの…」ということを主張しても、そこには本当の幸せはないのです。自分を中心に物事を考えはじめると、「誰も私のために何もしてくれない」という不満だけが膨らんでいきます。その不満が他の人に向けられると争いになり、自分の中に閉じ込もると非常なストレスになってしまいます。
イエス様はこの譬えを、貪欲を戒めるために語られました。金銭も、財産も、持ち物も地上で生きていくためには必要なものであり大切なものです。しかし、金銭や財産は「命」ではありません。彼は、自分が手にしているものはすべて自分のものだと考え、そして、自分のいのちは、自分が働き得た財産に支えられていると考えました。すなわち、自分のいのちは、自分の所有物であり、自分で支配していると考えていたのです。しかし神様は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われたのです。この、「命は取り上げられる」と日本語に訳された部分、原語では「命を取り戻す」となっています。命の所有権は神様にあることが、明確に書かれているのです。命は、富に支えられているのではなく、命の造り主なる神様の御手の中にあるのです。このことを忘れてしまうならば最終的には自分を駄目にし、隣人を傷つける不幸な人生を送るのでしょう。
今回のテキストの発端は「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」とあるように、遺産相続を巡る「兄弟間のもめごと」でした。しかし、福音書の最後に「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」とあるように、本質的な問題として問われるのは金銭的な損得ではないのです。問われているのは、神の前に豊かであること、すなわち「その人と共に生きている事を喜びとできるか」ということです。
当然のことですが、遺産相続は死がもたらす出来事です。家族の死を前にして、遺産相続を巡って別れ争うのではなく、家族との和解を望んだ人、そして実際に和解することのできた人の姿は感動的です。逆に、その和解を妨げるものが「貪欲」だと言えるのかもしれません。「和解」は「神の前での豊かさ」と言えるでしょう。私たち一人ひとりの中に、おそらく両方の面があります。私の中にある「貪欲」とはどんなもので、私の中にある「神の前での豊かさ」とはどんなものなのかを考えるように、今回の福音書は私たちを招いているのでしょう。
私たちは、どのようにに生きるべきなのでしょう。私たちの命は誰のものでしょうか。私たちは、私たちを造られ、生かして下さる神様に信頼し、従って歩んでいくのです。私たちの命は、富に支えられているのではなく、神様の御手によって支えられているのです。神様とイエス様を信じる信仰によって、モノやカネに縛られない、自由でいきいきとした人生へと歩み出したいと思います。この自由を奪う貪欲さ、高慢な思い上がり、自己本位な考え方から解放され、神様の前にあって豊かな者となりたいものです。
「全てのものは主の賜物。私たちは主から受けて主に献げたのです」アーメン