日本聖公会 東京教区

聖マーガレット教会

〒167-0054
東京都 杉並区
松庵1-12-29
TEL 03-3334-2812




本日の勧話次回

2017年8月20日(日)

聖霊降臨後第11主日

み言葉と勧話

マタイによる福音書 15章21-28

聖マーガレット教会の
「み言葉の礼拝」

毎月第3日曜日午前7時半
/司祭不在の日曜日礼拝

み言葉の礼拝紹介
最近の「み言葉の礼拝」
2017年
8/20 聖霊降臨後第11主日
2018年
8/12 聖霊降臨後第12主日
8/26 聖霊降臨後第14主日
12/16 降臨節第3主日
2019年
1/20 顕現後第2主日
2/17 顕現後第6主日
3/17 大斎節第2主日
5/19 復活節第5主日
6/9 聖霊降臨日
6/16 三位一体主日
7/21 聖霊降臨後第6主日
8/4 聖霊降臨後第8主日
8/18 聖霊降臨後第10主日
9/15 聖霊降臨後第14主日
11/17 聖霊降臨後第23主日
12/15 降臨節第3主日

 

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方(ちほう)()かれた。 22 すると、この()()まれたカナンの(おんな)()()て、「(しゅ)よ、ダビデの()よ、わたしを(あわ)れんでください。(むすめ)悪霊(あくれい)にひどく(くる)しめられています」と(さけ)んだ。 23 しかし、イエスは(なに)もお(こた)えにならなかった。そこで、弟子(でし)たちが近寄(ちかよ)って()(ねが)った。「この(おんな)()(はら)ってください。(さけ)びながらついて()ますので。」 24 イエスは、「わたしは、イスラエルの(いえ)(うしな)われた(ひつじ)のところにしか(つか)わされていない」とお(こた)えになった。 25 しかし、(おんな)()て、イエスの(まえ)にひれ()し、「(しゅ)よ、どうかお(たす)けください」と()った。 26 イエスが、「子供(こども)たちのパンを()って小犬(こいぬ)にやってはいけない」とお(こた)えになると、 27 (おんな)()った。「(しゅ)よ、ごもっともです。しかし、小犬(こいぬ)主人(しゅじん)食卓(しょくたく)から()ちるパン(くず)はいただくのです。」 28 そこで、イエスはお(こた)えになった。「婦人(ふじん)よ、あなたの信仰(しんこう)立派(りっぱ)だ。あなたの(ねが)いどおりになるように。」そのとき、(むすめ)病気(びょうき)はいやされた。

日本聖書協会 新共同訳聖書

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勧話

「神殿崩壊の予告」と「終末の徴」

主イエス・キリストよ、私の岩、贖い主よ、私の口の言葉、心の思いを御心にかなわせてください。アーメン 皆さん、おはようございます。皆さんはどのような一週間を過ごされたでしょうか。いつも通りに忙しくお仕事をされた方もいらっしゃるでしょう。また、先週が夏休みで、久しぶりに家族揃ってのんびりされたという方もいらっしゃることでしょう。いずれにせよ、新しい一週間の初めにあたり、新しい視点を私たちに与えてくださる塚田司祭の刺激的な説教や、山口司祭による、深い聖書理解に基づいた含蓄のある説教を伺って、気分をリフレッシュしてこの一週間をスタートしようと教会にいらしてくださった皆さん、ごめんなさい。今日は塚田司祭や山口司祭の説教ではなく、私の話です。皆さんがよ〜くご存知の私が話すのですから、たいしたことはお話できません。どうぞ気楽にお聞きになってください。それでは、いまお読みいただきました福音書についてご一緒に考えてまいりましょう。

本日の福音書には、「カナンの女の信仰」という見出しがが付けられています。カナンというのは地名ですが、いわゆる異邦人の暮らす地方です。イエス様はユダヤの地で神様と民との関係性の回復をはかること、信仰のあるべき姿に彼らが立ち返れるように導くために働かれていましたが、時折、弟子たちをともなって異邦人の地に出かけられ、静かな時を過ごされたのかもしれません。そんな時に出会った「カナンの女」とのやりとりが今回の福音書に描き出されているわけです。

カナンの女の絵画の写真
ジャン・ジェルマン・ドルアイ、1784年作"The Woman of Canaan at the Feet of Christ"(キリストの足もとにひれ伏すカナンの女)ルーブル美術館蔵

ところで、私は幼児洗礼を受けて以来、ミッションスクールで育ちましたので、日曜日のみならず、毎日のように礼拝や聖書の授業を通してイエス様のお話を伺ってきました。小学校に入学しますと全員に新約聖書が配られました。いまでもこの口語訳の新約聖書は私の本棚にありますが、開いてみますと、あちこちに赤鉛筆で線が引いてあるのですが、今回の福音書の部分にも真っ赤に線がひかれていました。それを見て当時のことを思い出したのです。子どもの頃、今回の福音書の箇所を読むと、とても悲しい気持ちになったのです。幼稚園や小学校のチャプレンから伺うイエス様というのは、誰にでも分け隔てなく愛情を注がれる方、という印象でした。困っている人や病気の人、悲しんでいる人に寄り添い、手を置かれて癒される方です。しかし、今回の福音書に見られるイエス様や弟子たちの対応は、それまでの私が知っていたイエス様とはだいぶ趣が異なります。イエス様や弟子たちの対応の中に冷たさや差別的な印象を受けたのです。私はとても悲しい気持ちになったものです。また、思春期を迎える頃、生意気になった私は「なんだかイエス様と弟子たちはケチくさいなぁ。結局は癒されるのだったら、最初から気持ち良く、このカナンの女と向き合ってあげればいいのに!」と感じたものです。さすがに、今はそのような不遜な思いではありませんが、今回、お話の準備にあたってこの福音書を読んでいますと、やはり複雑な思いに捉われるのでした。悪霊に取り憑かれた娘(=病気を患う娘)を救いたい一心で、イエス様にすがる「カナンの女」を無視するかのような態度に悲しさを感じてしまうのです。

このようなイエス様の拒絶とも取れる態度は何を意味しているのでしょうか。12人の弟子を派遣するときにも似た言葉がありました。マタイによる福音書の10章5・6節には「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」とあります。このような言葉は、他の福音書には見当たりませんでした。異邦人に対する拒絶ともとれる言葉には、何か釈然としない思いにさせられます。24節の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というイエス様の言葉からは、イスラエルの民を救うことがミッションであったことが読み取れます。ご存知の方も多いかと思いますが、羊はとても繊細な動物で、こまめにケアしていないと、群れからはぐれてしまうばかりか、衰弱してしまうのだそうです。当時のイスラエルはファリサイ派などの台頭により、律法に人々の生活が縛られ、羊飼いである神様との関係の中で、信仰のあるべき姿とは掛け離れた状態、すなわち、群れからはぐれた羊の状態だったのでしょう。群れからはぐれた羊である民、すなわちイスラエルを救うことが、緊急の課題であることは間違いのないところだと思いますが、カナンの女は、約束されたイスラエルの羊ではなく、異邦の民ですから、救われる対象からは外れてしまうことになります。しかし、マタイによる福音書の巻末において、復活されたイエス様は「すべての民を私の弟子にしなさい」と、あらゆる垣根を取り払って伝道に出かけるよう、弟子達に命じていますから、最終的にはすべての民を救うということなのでしょう。それなら、なぜ、カナンの女と娘は祝福され、救われたのでしょうか。この疑問については後ほど、あらためて触れたいと思います。

さて、ここでカナンの女に視点を移して考えてみたいと思います。「ダビデの子よ…」とカナンの女は語りかけています。「ダビデの子よ」という語りかけの言葉はマタイによる福音書の冒頭にある、イエス様の系図、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」を思い出します。つまり、「ダビデの子よ」という語りかけからは、カナンの女がイエス様のことを救い主であると認識していたことが読み取れます。イエス様のことを救い主と認識するカナンの女は執拗に叫びます。22,23節には、「すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています』」と叫んだ。 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。『この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。』」と、このカナンの女が叫んでいたことが書かれています。ところで、皆さんは先週の福音書をご記憶でしょうか。少し長くなりますが一部をお読みいたします。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。」とありました。今回の福音書のカナンの女も、先週の福音書におけるペトロも助けて欲しいとの思いから叫んでいます。この「叫ぶ」という行為には、何某かの意味があるのだと思います。「叫ぶ」という行動から感じられるのは、なりふりを構っていられないような切迫した状況といったところでしょうか。私は、この「なりふりを構っていられない」という心の状態に、カギがあるのではないかと思うのです。なりふりを構わずに助けを求める者の心の中に、主に対する信頼や、薄く弱くあろうとも、主に対する信仰を感じ取ることができるのではないでしょうか。

繰り返して申し上げますが、カナンの女は切迫した思いから、なりふり構わずに叫んだのです。それにもかかわらず、弟子たちはカナンの女の訴えには関心がありませんでした。弟子たちはイエス様に「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と言いましたね。イエス様も次のように拒絶の言葉をおっしゃいました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない。」と言われたのです。カナンの女はイエス様に期待をかけていたでしょうから、イエス様の拒絶とも思える対応に悲しみや怒り、失望の思いを抱いたのではないでしょうか。しかし、カナンの女はイエス様にさらに訴えます。25節にあるように「来て、イエスの前にひれ伏し」て、「主よ、どうかお助けください。」と言ったのです。カナンの女は切実な心でイエス様を頼ったのです。それでも、イエス様は彼女の心を踏み付けるように、この女をほかでもない「小犬」に譬えて「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。」と仰られたのです。私はまさにこの言葉のために、複雑な思いになったのです。拒絶の言葉も足りなくて、人を小犬に譬えるなんて、と悲しくなったのです。

現代では犬をペットや、コンパニオン・アニマルと呼び、部屋の中で育てながら家族のように暮らしています。皆さんの中にも犬を飼われ、大切な存在として可愛がっている方がいらっしゃることでしょう。しかし、福音書の記された当時、ユダヤ人は犬を不潔な動物だと考えました。異邦人であるカナンの女を、不潔であると、嫌われていた犬に譬えたのですから、カナンの女の立場にたつならば、侮辱されているようにも感じます。救い主として世の中を救ってくださるはずの方が、なぜ、このように切に訴える人に、侮辱的に受け取れるであろう言葉をおっしゃるのでしょうか。私には受け入れがたい言葉です。皆さんはどう思われたでしょうか。

しかし、カナンの女はイエス様のこの言葉にも動じませんでした。かえって機転をきかせて答えます。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」彼女のこの答えは「主が与えてくださる祝福は大きくて多いのですから、失われた羊を祝福しても十分残っているのではありませんか」という意味ではないでしょうか。私はいま、このカナンの女の答えに注目したいのです。なぜならば、このカナンの女の答えこそ「救いと恵みはどのように近付くのか」を教えてくれるように思えるからです。先ほど、カナンの女と娘がすくわれ、祝福された理由について、後ほど触れますと申し上げましたが、カナンの女は、異邦人でありながらも、イスラエルの預言者であり、不思議な業を行われる方であるイエス様にのみ救いを求め、希望をおいたのです。この彼女の信仰によって、彼女が異邦人でありながらも約束された民、すなわち、イスラエルの家の失われた羊に加えられることになったのです。

私たちの人生は、誰の人生でも決して順調満帆ではありません。自分の意志とは関係なしに、ある瞬間には試練と苦しみに会います。そして私たちは、助けて貰いたいとの思いからお祈りをします。しかし、そのお祈りに対する応答がないと感じられる時がありますね。「神様はどうして私のお祈りを聞いてくださらないのか」という疑問を持つようにもなるでしょう。そして、この疑問は「はたして神様はいらっしゃるのか」という、さらなる疑問や疑念を、私たちの中に生み出してしまうことにも繋がるのです。裏切られた気持ちにも、なるでしょう。このような時に、「どうせ聞いてもらえないのなら、どうせ叶えてもらえないなら」と、お祈りを止めてしまうことがあるかもしれません。まさにこの瞬間が大きなポイントではないかと思うのです。カナンの女も同様の思いを抱いたのではないかと私は推測しています。カナンの女も、冷たく差別的な対応の中で、諦めかけた瞬間があったのではないかと思うのです。私はこの瞬間が、カナンの女がイエス様の厳しい言葉に向き合った瞬間だと思います。イエス様の侮辱的とも取れる厳しい言葉に「娘を助けてください」と言う訴えをやめて、帰ってしまいたくなったかもしれない瞬間です。しかし、彼女は諦めませんでした。私は、このカナンの女の諦めない姿勢から学びたいと思うのです。そう、忘れてはならないのです。救い主であるイエス様は断る方ではないのです。聖書のどこにも、主がご自分の民のお祈りを断わったという記述はないのです。そして私たちのお祈りに決して沈黙される方ではないのです。私たちが真に神様を信じたなら、小犬にたとえられたイエス様の言葉はもはや侮辱ではありません。それは私たちを信仰に導くためのみ言葉だと考えられるのではないでしょうか。

カナンの女は「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエス様の言葉を逆手にとって「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と、自分の娘も救いを受けることができるはずだと主張しています。彼女の必死の思いと、イエス様へのゆるぎない信頼が現れているように思うのです。異邦人の女の執拗な「叫び」と揺るぎない「信仰」が、イエス様の心を動かしたと理解できるように思います。

神様はすべてをご存知です。私たちの苦しい心、悲しい心、人を羨む心まで。そして時を待っている方です。それは私たちが信仰に立ち返る時です。その時までは、私たちの痛みと苦しみが深くなることがあるかもしれません。しかし、神様はその「時」になればすべてのことを聞いてくださるのでしょう。そして、その時に私たちがいただく恵みは、何ものにも代えがたい、大きな恵みなのではないでしょうか。

カナンの女が神様の恵みを受けることができたのは、まさにこのためだと思うのです。彼女はお祈りを中断しなかったのです。叫び続けたのです。信仰を持って主の前に立ち向かったのです。
イエス様はこのような信仰を喜ばれたのだと思うのです。イエス様にとって本当に大切なのは、宣教計画ではなく、目の前の人間だったと言えるのかもしれません。カナンの女との出会いによって、カナンの女の信仰に触れることによって変えられていくイエス様の姿に、深い愛の心が現れているように感じられますね。

イエス様は「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と仰られました。私たちの一人ひとりも、自らの罪を認識し、悔い改め、救い主であるイエス様にのみ希望をおき、信頼をよせて祈り求め続けることによって、このカナンの女がいただいた恵みを、共に受けられるようになりたいものです。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と仰られたイエス様の言葉が、私たちの一人ひとりに伝わる主のみ言葉になるように祈りたいと思います。

私の話は以上で終わりです。お聞き苦しい点も多々あったかと思いますが、聞いてくださり感謝したします。また、夏休み中にもかかわらず、私のために時間を割き、示唆に富んだ助言をくださった塚田司祭にも感謝をしたいと思います。それでは、礼拝を続けましょう。

パウロ 福永 澄

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