2018年8月12日(日)
聖霊降臨後第12主日
み言葉と勧話
ヨハネによる福音書 6章37-51
37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38 わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40 わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48 わたしは命のパンである。 49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
日本聖書協会 新共同訳聖書
勧話
主イエス・キリストよ、私の岩、贖い主よ。私の口の言葉、心の思いを御心にかなわせてください。アーメン
どうぞお座りください。
皆さん、おはようございます。本日は、塚田司祭が日曜学校のキャンプに行かれているため、私がお話をさせていただきます。
それでは、ただいまお読みいただきました福音書について、皆さまとご一緒に考えてまいりたいと思います。本日の福音書は、先週の続きの箇所が選ばれています。二週間前まではマルコによる福音書において、「五千人の給食」の奇蹟の物語を、続いて嵐で船を進めることのできなかった弟子たちのところへイエス様が湖の上を歩いてこられたことを読みました。そして先週はヨハネによる福音書において「イエスはいのちのパン」であることを読みました。マルコとヨハネという異なる福音書ですが、物語としては続いています。今回の福音書では、イエスさまご自身の言葉によって、イエス様が「いのちのパン」であること、それをいただく私たちは「永遠のいのち」に招かれていることが語られ、そのイエス様の語られたことを受けた、ユダヤ人たちとのやりとりが記されています。そして、そのやりとりは何だか「ちぐはぐ」な印象を私たちに与えます。何がどのように「ちぐはぐ」なのかを見ながら、この福音書が私たちに与える「福音」とは何なのかを考えていきたいと思います。
さて、福音書の冒頭「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と、「イエス様のもとに来る者は救われる」ことがイエス様の言葉によって宣言されています。イエス様のもとに行くということは、イエス様を遣わされた神様を信じるということです。そして、神様を信じてイエス様のもとに来る者は、終わりの日に復活させられ、「永遠のいのち」を得ると仰っられているのです。
このイエス様の言葉を聞いたユダヤ人たちは「つぶやき始めた」と福音書には記されています。彼らがつぶやいたのは、永遠のいのちが与えられることの喜びとは真逆の思いでした。ユダヤ人たちは「「どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか」と言っています。これは、イエス様が神様に遣わされた方であることを疑う思いや、否定する思いの表れです。「天から降ってきた」という言葉は、天におられる神様とのつながりを感じさせる表現だからです。
皆さんは、先週の福音書をご記憶でしょうか。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」とイエス様は仰っていましたね。彼らが五千人の給食の奇蹟を通して熱狂したのは、魂の養いとしての神様の憐れみやお恵みではなく、日常の肉体的な飢えを凌ぐ、食べ物としてのパンを与えてくれる王様、ローマの圧政の苦しみから自分たちを救い、豊かな生活を保証してくれる、この世にある王様だったのでしょう。ユダヤ人たちのこの思いこそが、この福音書が「ちぐはぐ」な印象を与える根底にあるものです。
先週の聖餐式の説教の中で、塚田司祭が仰られた「誤った問いからは、正しい答えが導かれることはない」という言葉をご記憶の方もおられることでしょう。ユダヤ人たちの「つぶやき」からは、イエス様の本質をとらえずに、イエス様がどこから来たのかという氏素性についての不満が見えてきます。「我々はその父も母も知っている」という言葉には、イエス様を自分たちの知識や認識の中に閉じ込めようという思いがあるのでしょう。そして、ユダヤ人たちがイエス様のことを「知っている」と主張すればするほど、イエス様の本質からは遠く離れてしまうのだと思います。
イエス様は「つぶやき合うのはやめなさい」と仰っています。続けて「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」と仰っています。自分の認識で捉えるのを止め、神様に「引き寄せて」いただくことによってのみ、イエス様との深い関係を結ぶことができることを覚えなければならないのです。自分の知識や認識に閉じこもるうちは、父なる神様に心を開くこともできないのです。それは神様を拒否する生き方と言えます。ですから、イエス様のもとに行くこともできず、もちろん、永遠のいのちに招かれることもないということです。
ところで、この「つぶやく」ユダヤ人たちの中に自分自身の生き方を見いだすのは私だけでしょうか。私は幼児洗礼をの恵みに与り、教会で育ちました。聖書のみ言葉や教会での牧師さんの説教に頷きながら「そうなんだけど、現実は…」「理想はそうかもしれないけど、なかなか難しいよね」などと、神様を拒否する生き方もしてきたように思うのです。主日に教会に出かけて神様を礼拝しながら、月曜日からの六日間は「神なき世界」を気取って世俗に塗れて生きている自分を否定できません。しかし、イエス様は私たちに日曜日だけクリスチャンとして生きなさいと仰っているわけではないのは明らかです。いつでも、イエス様のみを真の救い主として信頼し、生活の中心にお迎えするクリスチャンでいたいものです。
イエス様はイスラエルの民が荒れ野で食べたマンナについて語られ、「先祖たちはマンナを食べたが結局死んでしまった。しかし、私こそ天から降って来た生きたパン、いのちのパンであり、このパンを食べる者は永遠に生きるのだ」と仰ったのです。私たちに今与えられているのは、マンナではなくてイエス様という命のパンです。
今回の福音書の中で、イエス様はご自身のことを41節では「わたしは天から降って来たパンである」と、48節には「わたしは命のパンである」、そして51節には「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と三度にわたって仰られています。このイエス様の三度にわたる言葉を注意深く読みたいと思うのです。イエス様は「わたしは天から降ってきたパン」「わたしはいのちのパン」「わたしは、天から降ってきた生きたパン」と仰っているのであって、「私があなたがたに『いのちのパン』を与えよう」と仰っているのではないのです。つまり、イエス様は特別に栄養価の高いパンを与えてくださるということではなく、ご自身そのものを私たちに与えてくださるということです。イエス様はご自分をいのちのパンの「与え主」とは言わず、「いのちのパン」そのものであると仰っているのです。イエス様が私たちを救うのために、ご自分を犠牲としてささげられるということです。
イエス様は続けて「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と説明されています。「世を生かすためのわたしの肉」という言葉には、聖餐式を思い起こさせる意味合いが感じられますね。私たちは聖餐式の中で裂かれたパンを共にいただいていますが、ここで「いのちのパン」をいただくことの意味について考えておきたいと思います。まず、私たちがイエス様を心から信じて受け入れるということです。食べるということは体の中に入れるということです。私たちは「いのちのパン」をいただくことを通して、イエス様を自分の中心に迎えるのです。さらに、「いのちのパン」をいただくということは、私たちがイエス様によって生かされていることを意味しているのだと思います。私たちの肉体も魂も「いのちのパン」をいただくこと、即ちイエス様を信じることを通して生かされるのです。また、神様の与えてくださるお恵みが日常に及んでいることを意味しているように思うのです。食べたり、飲んだりすることは日常的なことです。私たちは何も食べず、何も飲まずに生きていくことはできないのです。ことに弱い私たちの魂には「いのちのパン」は欠かすことのできないものなのです。
私たちは「いのちのパン」によって養われ、神様の民として立ち上げられ、永遠のいのちへと迎え入れられていくのです。イエス様という「いのちのパン」を味わいつつ生きることによって、私たちは神様がその独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっていることを知らされ、その愛に信頼して生きる者とされていくのです。神様を礼拝し、イエス様にのみ信頼を置いて生きることは、私たちを罪から解放し、完全なる自由へと向かわせるのです。その自由は、必ずしも安穏として楽しく、困難のない生活ということではないでしょう。その自由に生きるうちには、迫害され、困難や苦しみの中で忍耐しなければならないという厳しいこともあるのでしょう。しかし、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったイエス様が共にいてくださるその歩みは、罪に支配されていたかつての歩みとは比べものにならない、喜びと慰めと励ましの中での歩みであり、イエス様の復活の恵みに与って、私たちも「永遠のいのち」を与えられる、その約束の地へと向かう希望ある歩みなのだと思うのです。
「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」と47節にあるように、私たちが主を信じているならば、私たちはすでに「永遠のいのち」のうちに迎え入れられているのです。ヨハネによる福音書17章3節には「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。永遠の命とは、主に出会い、主を知り、主につながるということです。ご自身のすべてを犠牲にされたイエス様を通して、私たちの一人ひとりは神様に繋げられていくのです。
私たちをイエス様と出会えるように招いてくださる神様に感謝しつつ、聖書のみ言葉に触れること、祈ることを通して、また、本日はみ言葉の礼拝ですが、聖餐式の恵みに与る中で「いのちのパン」であるイエス様に従い、「永遠のいのち」に迎え入れられていることを覚えたいと思います。私たちの一人ひとりが「永遠のいのち」に生かされ、主の忠実な弟子として、感謝と賛美をもって歩んで行くことができますように。アーメン。
パウロ 福永 澄