2018年12月16日(日)
降臨節第3主日
み言葉と勧話
ルカによる福音書 3章7-18
7そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫つた神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 8悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。 言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 9斧は既に木の根元に置かれている。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」 10そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 11ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。 食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。 12徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。 13ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。 14兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。 自分の給料で満足せよ」と言つた。 15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 17そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 18ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。
日本聖書協会 新共同訳聖書
勧話
主イエス・キリストよ。わたしの岩、贖い主よ、わたしの口の言葉、心の思いをみ心にかなわせてください。アーメン
どうぞ、お座りください。皆さん、おはようございます。
本日は塚田司祭が東京聖十字教会の管理牧師としてお出かけになっていらっしゃいますので、私がお話しをさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
救い主のご降誕を待ち望む降臨節も第3主日となりました。せわしない日々の生活を送りながらも、クリスマスが近づくこの時期になると、なんとなくソワソワ、ワクワクされている方もいらっしゃるのではないでしょうか。しかしながら、ただいまお読みいただきました福音書の記事は、ワクワクする気持ちとはまるで逆の印象を私たちに与えます。本日の福音書は先週の続きの箇所です。全編が洗礼者ヨハネによる説教です。それでは、この福音書についてご一緒に考えてまいりたいと思います。洗礼者ヨハネが群衆に伝えたかったメッセージは2つです。
一つ目は8節に書かれている「悔い改めにふさわしい実を結べ」です。「悔い改めにふさわしい…」と言うからには、まずは「悔い改める」ことが求められているのです。私たちは日々の生活の中で罪を犯しています。無関心であるため、欲望に負けたためなど、さまざまな原因があるように思いますが、いずれにしても私たちは罪を重ねて生きていると言えるのではないでしょうか。罪を犯さずに生きているという人はいないと言ってもいいでしょう。ご存知の方も多いとは思いますが、聖書に書かれている「罪」という言葉は「的外れな生き方」のことです。ですから、悔い改めるということは、ズレていた方向性を改めて、的を見据えて生きていくということだと理解できます。
私たちは、無自覚にも自覚的にも罪を重ねています。自分自身の中で「ああ、またやってしまった…」「悪いとはわかっているのだけれど…」と思いながら、心のどこかで「これぐらいはいいだろう」「今日だけはいいことにしよう」と自分を甘やかし、誤魔化してはいないでしょうか。さらに、その自分を甘やかす、自分を誤魔化す生き方を、自分の弱さのせいにして開き直ってはいないでしょうか。自分を誤魔化すことなく考えて、悔い改めるべきでしょう。しかし、個人としての悔い改めはとても大切なのですが、私たちの一人ひとりは神様によって呼び集められた共同体であることを忘れてはならないでしょう。どんなに神様の前に謙虚に誠実に生きようとしても、私たちは罪を繰り返して犯します。そんな弱く小さな存在ですが、主は私たちの罪を贖う者として、この世に来られたことを心にとめたいものです。ですから、罪を重ねないように努めると同時に、私たちは一人で生きているのではなく、すでに主に招かれて集められた民であることを知り、互いに祈り、支えあいたいと思うのです。そして、私の弱さをご存知で、その弱さを補って救ってくださる主が共にいてくださることに、感謝をし、信頼して歩む者でありたいと思います。
洗礼者ヨハネの「悔い改めにふさわしい実を結べ」という言葉ですが、一体、どのように生きることが求められているのでしょうか。悔い改めにふさわしい実を結ぶために、私たちはどうしたらよいのか不安になってしまいますね。福音書を読み返してみますと、「わたしたちはどうすればよいのですか」と群衆は尋ねています。その問いかけに対し「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」とバプテスマのヨハネは応えています。また徴税人には「規定以上のものは取り立てるな」と、兵士には「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と応えています。これらの言葉から考えていくと、「悔い改めにふさわしい実を結べ」というのは、「持っている物を必要としている人と分かち合うこと」「他者に対して悪を行わないこと」だということが読み取れます。
徴税人という職業は、ユダヤ人でありながらローマ帝国のために同胞から税を取り立て、そのことによって自分の利益を得ていた人です。彼らの中には不正な取立てをする者もいたようです。その職業のあり方自体が、すでに「罪」のニュアンスを感じさせますが、洗礼者ヨハネは、「その仕事を辞めなさい」とは語っていないのが興味深いところです。仕事を辞めるのではなく、「仕事の仕方を変えなさい」と教えているのですね。「悔い改めにふさわしい実を結ぶ」生き方というのは「自分に与えられた場所で神様のみ心にかなう生き方をすること」だと理解できるのではないでしょうか。私たちの一人ひとりが、どのように悔い改めるべきなのか、具体的に、どのように生き方を方向転換させるべきなのかは、悩ましい問題です。私たちは自分に甘く、自分本位に生きているので、自分自身の生き方の間違いを認めること、見つめることができないからです。群衆がそうであったように、徴税人や兵士がそうであったように、「わたしはどうすればよいのですか」と、祈りの中で謙虚に主に尋ねることが必要なのでしょう。主に尋ね、主に聞き、主に従う者でありたいものです。
さて、洗礼者ヨハネの説教の二つ目のポイントはメシアの到来の予告です。15節の「メシア」という言葉はご存知の方も多いこととは思いますが、「油注がれた者」という意味のヘブライ語です。「油注がれた者」というのは神様からの特別な使命を与えられている者のことで、「救い主」のことを意味しています。そのメシアのことを、洗礼者ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と語っています。履物のひもを解くのはしもべの仕事ですから、メシアの偉大さを表す言葉と理解できるでしょう。
そして、メシアについて次のように語っています。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、…その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と。水による洗礼、聖霊と火による洗礼とはどういう違いなのでしょうか。そもそも「洗礼」という言葉は、「水に沈める」という意味のギリシア語の「バプティゾ」というのが語源です。洗礼者ヨハネは、悔い改めの洗礼を求めてやってくる人を、ヨルダン川にその人の全身を沈めて洗礼を授けていました。水に沈めるということは、空気が吸えない状況です。私たちは空気がないと生きていくことができません。ですから、水に全身を沈めることは、それまでの罪に生きていた自分が死ぬことを意味します。罪に生きていた自分が死ぬことで、新たに神様のしもべとして生まれるということです。逆に言うならば、これまでの罪にまみれた自分に死なない限りは、新しい命に生きることはできないということです。
では、メシアによって授けられる「聖霊と火による洗礼」というのは、どういうものでしょうか。「聖霊」はギリシア語で「プネウマ」と言い「風、息」を表す言葉です。17節には「手に箕(み)を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」という言葉があります。「箕」というのは麦の殻と実をより分けるための農具です。まず麦を叩いて殻を外しますが、そのままでは麦の実と殻が混ざった状態です。箕という農具は、その混ざった状態のものを空中に放り上げるときに使うものです。殻は軽いので風に飛ばされ、比較的重い麦の実だけが残ります。「風と火の中に沈めること」とは、神様の裁きのイメージだったと理解できるのでしょう。つまり、洗礼者ヨハネがその到来を予告したメシアとは、神様の裁きをもたらす人ということだと思います。洗礼者ヨハネは、裁きをもたらす人の到来される前に人々に回心すること、悔い改めることの重要性を呼びかけたのでしょう。
ところで、次の主日には、代祷の中で覚え続けてきた兄弟が、いよいよ洗礼の恵みに与ります。これまでのご自身の人生を振り返りながら準備の時を過ごされてきたのではないでしょうか。まさに、悔い改めるべき自分と向き合い、祈り続けてこられたことでしょう。そして、いよいよ新しい命に歩む、喜びの時を迎えられるのです。ルカによる福音書15章7節に「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と記されています。私たちにとっても大きなお恵みであり、喜びの時です。この兄弟が洗礼の恵みに与る時、証人となる私たちの一人ひとりも心を新たにして、共にこれまでの自分を悔い改めたいものです。私たちは、共に新たにされた者、恵みのうちに歩む者として、ご一緒に降誕日の喜びの時をお迎えしたいと思います。
今回の洗礼者ヨハネの説教が伝えた「福音」とは「聖霊と火によって洗礼を授けてくださる方の到来」と「悔い改めることによって、救いに与ることができる」ということだと思います。先ほども触れましたが、悔い改めて、罪に生きていた自分に死なない限り、救いはないということでしょう。ローマの信徒への手紙の6章4節に「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」とあります。つまり、悔い改めるということは、新しい命に生きる希望なのです。
救い主の降誕を待ち望む降臨節も後半に入ります。この期節は、喜びの訪れを待ち望む時であるとともに、自分自身が悔い改めるチャンスでもあるのだと思います。私にとっての「悔い改めにふさわしい実」とはなんなのか、そのイメージはまだ朧げですが、逃げることなくみ言葉と向き合い、降誕される救い主に心を寄せるとともに、隣人に目を向け、隣人に対して誠実さをもって愛の心で接していきたいと思います。
願わくは、私たち一人ひとりが的外れな生き方を改め、与えられた場所であなたのみ心のうちに歩むことができますようにお導きをお与えください。主イエス・キリストによって。アーメン
パウロ 福永 澄