2019年1月20日(日)
顕現後第2主日
み言葉と勧話
ヨハネによる福音書 2:1-11
カナでの婚礼
1三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。
2イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。
3ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。
4イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」
5しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。
6そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。
7イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。
8イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。
召し使いたちは運んで行った。
9世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、
10言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」
11イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。
日本聖書協会 新共同訳聖書
勧話
「はじめに」
みなさん、おはようございます。今日、第三主日は塚田司祭が管理牧師を務めておられます東京聖十字教会へお出かけになりましたので、この早朝礼拝は私たち信徒だけで礼拝を守る「み言葉の礼拝」をささげております。私は2018年8月20日に続き2回目の「勧話」を担当させていただきます。
皆様もご存じの通り、私はこの10年ほど日曜学校にかかわっており、日曜学校の礼拝では当番制で「教話」を担当しておりますので、今日の「勧話」も日曜学校の子供たちに向かって話すつもりで行いたいと思いますので、その旨をあらかじめお断りしておきます。
「キーワード」
初めに今日の福音書のキーワードを言います。ヨハネによる福音書第2章11節をもう一度読みます。
『イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。』
「最初のしるし」って何?「その栄光を現された」って何?「それで弟子たちはイエスを信じた」って、お弟子さんなのにそれまではイエスさまのことを信じていなかったの?と、この最後の一節だけでもたくさん疑問がわいてきますね?
今日与えられたヨハネによる福音書2章1節はいきなり『三日目に~」』とはじまるのでいったい何の話だと思ってしまいますね。
その前の部分ではイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けて後、お弟子さんたちを集めるところです。バプテスマのヨハネの弟子二人(一人はアンデレ、もう一人の名前は書いていないが伝統的にヨハネと言われている)ペテロ、フィリポ、ナタナエル(バルトロマイ)の5人の名前が出てきます。ナタナエル(バルトロマイ)がお弟子さんになった「三日目」にガリラヤのカナ(ナザレの北20キロにあり、ナタナエルの出身地)というところで婚礼(結婚式)があり、イエス様およびお弟子さんたちも招かれていました。
婚礼(結婚式)はお祝い事でいわばお祭りです。この当時の婚礼のお祝いは結婚式当日だけでなく数日から時には一週間も続いて入れ替わり立ち替わりお客さんが訪れました。
宴会にはごちそうとお酒(ぶどう酒)がつきものですが、お酒(ぶどう酒)が足りなくなってしまいました。イエス様の母(なぜかマリア様の名前は出てきません)もそこにいてお客様をもてなしていましたが、お酒(ぶどう酒)が足りなくなったことに気づいてそのことをイエス様に告げます。イエス様は「婦人よ(聖書協会共同訳では「女よ」、別の訳では「女の方」)~私の時はまだ来ていません」と答えますが、マリア様は召し使い(下働きの男たち)に「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と頼みます。イエス様は婚礼の宴会場においてあったユダヤ人が清めに使う石の水がめ6個に水をいっぱい入れるよう指示し、水をかめの縁まで満たしたら「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われました。召し使いたちがイエス様に言われたとおり世話役のところへかめからくんだ水を運んでゆくとお酒(ぶどう酒)に、それも良いぶどう酒(最上級のぶどう酒)に変わっていて、この最初の奇跡を目の当たりにしたお弟子さんたちがイエスを信じたというお話です。
カナの婚礼の意味
この一見どこにでもありそうな、でもちょっと奇妙なお話の意味は何でしょう?私が注目するのは①数字、②石の水がめ、③イエスの母(マリア様)と召し使いたちの三つです。
① 数字について
「三日目に」「石の水がめが六つ」と書いてありますが、「三」は三位一体や神様を現す聖なる数字です。また、私たちの罪のために十字架の上で死んだイエス様が「三日目に」よみがえったことを思い出させる表現だと思います。
「六」は完全数「七」に対して足りない不完全数を現しています。
② 石の水がめについて
律法では、食前に不浄なものに触れた場合、その手で触れる食物もすべて不浄とされたので、汚れた身体を清めることを求めていました。もちろん衛生上汚れたばい菌だらけの手で食べ物を食べたらおなかをこわしたり大変なことになりますから、食事の前に清潔を保つのは良いのですが、律法を元にしたユダヤ人の慣習はただ決まりだから清めることになっていました。
石の水がめ六つは「不完全な律法」を現しているのではないでしょうか?
③ イエスの母(マリア様)と召し使いたちについて
イエスの母(マリア様)と召し使いたちはイエス様の言葉を疑うことなく従ってゆきます。私たちの感覚で言えば息子が母に「婦人よ(女よ、女の方)」と呼びかけたらけんかになりそうですが、マリア様はイエス様がただ者ではない神の子であることを理解していましたから、召し使いたちに「この人の言うとおりにしてください」と頼んだのでしょう。
召し使いたちも、一つが二ないし三メトレテス(一メトレテスは約三十九リットル)入りの大きな石の水がめ六つを満たす水をくむ作業を成し遂げています。私たちの家庭では、水道の蛇口をひねれば水が出ますが、この時代のイスラエルに水道はありません。召し使いたちは井戸から水をくみ上げて運ぶ作業を何度も繰り返したはずです。私ならなぜこんなことをするのか、何の意味があるのか文句を言ってしまいそうです。
水がワインに変えられたこと
イエス様が母マリア様の「ぶどう酒がなくなりました」という問いかけの答え「~わたしの時はまだ来ていません」は、ご自身の死と復活すなわち神の子としての栄光(存在)を現す前だから願いには素直に答えられませんと言っているように思えます。
普段の生活の中で、私たちの祈りや願いが拒否されたように感じられるときでも、またそもそも神様はいるのかと言う気持ちになるときでも、イエス様の言葉に従って一見無意味に思える作業を繰り返してゆくと最後には実を結ぶ。
それはちょうど不完全な律法を現す石の水がめ六つに、イエス様の指図された七つ目にあたる水を満たすことで律法が完成し、完全となった水がぶどう酒に、それも極上のぶどう酒に変えられた。これが最初の奇跡であり、イエス様のお弟子さんたちが信じた「新しい教え」だったのだと思います。
イエス様の母マリア様について、わたしの考え
ローマンカトリックや東方正教会では、「カナでの婚礼」におけるマリア様のお働きが私たちの願いをイエス様に取り次いでくれる方、取りなしてくださる方として「マリア崇敬(敬うこと)」の根拠となっています。
私たち人間は「男と女」「右と左」など物事すべてを二つの対極に分けて考えてしまいがちです。「イエス様」「父なる神」という男性に対して「マリア様」「神の母」という女性を持ってくることで私たちの中でのバランスを保とうとしたのではないでしょうか?
教会の働き
「カナでの婚礼」の話を教会に当てはめてみると、私たちは召し使い、マリア様はイエス様に取りなしをする人(必ずしも聖職者とは限らない)と読めるのではないでしょうか。私たち一人一人が福音書をはじめ聖書を読み、その中にあるイエス様のご指示を聞き取り、その声に聞き従うなら、はじめはつまらない、意味があるのかどうかわからないような事柄でも、あるいは悲しくつらい事柄でも、やがて喜びが生まれると思うのです。
シメオン 元津 毅
参考文献スタディバイブル 日本聖書協会 2014年
キーワードでたどるキリスト教の歴史 林信孝 日本キリスト教団出版局 2008年
イエスの生涯 ジェラール・ベシエール 創元社 1995年
聖書人物おもしろ図鑑(新約編) 古賀博 他 日本キリスト教団出版局 2016年
聖書(聖書協会共同訳) 日本聖書協会 2018年
バイブル・プラス 日本聖書協会 2014年