2019年2月17日(日)
顕現後第6主日
み言葉と勧話
ルカによる福音書 6章17-21
17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。19 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21 今 飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今 泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、
あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。
この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今 満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。今 笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
日本聖書協会 新共同訳聖書
勧話
ただいまお読みいただきました福音書において、イエス様は「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」と語り始めています。これとよく似た言葉を、お聞きになったことがあるのではないでしょうか。マタイによる福音書の5章以下にある「山上の説教」と呼ばれる部分に、とても似た言葉があるのをご記憶の方もいらっしゃることでしょう。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」というものです。「心の貧しい人々…」と「心の」という言葉がつけられていますね。若干ですが言葉が違っています。そして、マタイによる福音書にある「山上の説教」の方がよく知られているかと思いますが、これらはもともと同じ言葉であったと思われます。
本日のルカによる福音書、また、マタイによる福音書にも記されているイエス様の語られた言葉ですが、読み比べてみますととても興味深いものがあります。そして、その違いにこそ、ルカ独特の視点があるように思えるのです。冒頭の17節に「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」とあります。イエス様は平らな所で教えを語られたのです。マタイによる福音書では、イエス様が教えを語られたのは山の上でした。山上の説教に先立っていやしの記事が出てきます。その後、「イエスはこの群集を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とマタイは続けています。
本日お読みいただいたルカによる福音書にも山は出てきますが、少し違います。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。」と本日の福音書の少し前の5章12・13節に記されています。ルカによれば、イエス様が山の上でなされたことは、祈りと12使徒の召集です。その後、山から下りて来られ、平らな所に立って語られたのです。このことから、マタイの「山上の説教」に対して、ルカの方は「平地の説教」と呼ばれています。山の上は、集中してイエス様の教えを聞くにはふさわしい所だったことでしょう。しかし、ルカが記しているように、山の下、平地に降りて来られ、私たちの日常生活の中へ入り込んでくださって、み言葉を語られるということの中にも、大きな福音があるのではないかと思うのです。
汚れた霊に悩まされていた人々を癒し、ありとあらゆる病気を癒した、その同じ場所で語り始められるのです。山の上ではありません。平地において、私たちの友として、同じ地平で話されたイエス様の言葉として聞くことができるのです。
ここで、本当は山の上なのか、平地なのか、どちらで語られたのだろうと、悩む必要はないでしょう。イエス様は同じ福音をもっと多くの箇所で、何度も語られたのではないでしょうか。それをマタイは山上の説教として、ルカは平地の説教として書き残したのだと思います。
マタイによる福音書では、基本的には少数の弟子たちに向かって語られました。
しかし、本日読んだルカによる福音書では様子が違います。17・18節に「大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。」とあるように、大勢の弟子たちとおびただしい民衆に向かって語られました。この民衆は、ガリラヤ湖周辺の民衆だけではありませんでした。ユダヤの全土とエルサレム、さらにルカはわざわざ、「ティルスやシドンの海岸地方から」と書き添えています。「ティルス、シドン」というのは、地中海の北のほう、当時のユダヤ世界からすれば辺境の地であり、異邦人が多く住む町です。汚れていると、みんなが思って忌み嫌っていた地方です。そのような所からもイエス様の教えを聞きに来ていたということで、いかにその教えを聞いた人々の幅が広かったかということがわかります。山の上で選ばれた人だけに語られた福音ではないのです。このことからルカは、その福音が異邦人にも広がったということを伝えたかったのではないかと推測できます。
さて本日の福音書の平地の説教の本文をいま一度読んでみましょう。20節から23節に「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」とあります。
先ほども申し上げましたように、マタイでは、「心の貧しい人々」と記されていたのに、ルカでは単純に「貧しい人々」となっています。それからマタイでは「義に飢え渇く人々」となっていますが、ルカでは単純に「今飢えている人々」と記されています。マタイは人々の心の問題を重視したのかもしれません。一方のルカは、心の問題だけではなく、その人の客観的、社会的状況をポイントにして伝えようとしたのでしょう。ルカは神様の言葉が、貧しい人々、飢えた人々、泣いている人々、絶望している人々、迫害を受けている人々、そういう人の元に届いたということを主眼に記しているのではないでしょうか。
「貧しい人々は幸いである」というのは、考えてみれば、不思議な幸福観です。
私たちの価値観は普通、この教えとは逆です。豊かに富んでいて、満腹できて、笑っていられる人生は幸せだと、私たちは考えていないでしょうか。そして、貧しく、飢え、泣いている人生は不幸だと…。アジアやアフリカで飢えている人々の姿を知るたびに、食いしん坊な私は、「食べられないことほど辛いことはないなぁ」と感じます。どうして、貧しく、飢え、泣いている人々は幸いだと言えるのでしょうか。それは、「幸い」とは今の状態を見て、言えることではないということです。勿論、貧しく、飢え、泣いている「いま」を、幸いだと言うことはできません。イエス様は、「いま」を見て仰るのではなく、将来を見据えて「幸いである」と仰っているのではないでしょうか。今は苦しく辛く、そして悲しくても、やがて「神の国はあなたがたのもの」になるから、「満たされる」から、「笑うようになる」から、あなたがたは幸いだと仰っているのです。金持ちと貧しい人、力ある者と力なき者、満たされている者と飢えた者との逆転が起きると語っているのです。
本日と同じルカによる福音書16章に「金持ちとラザロ」という話があります。毎日遊び暮らしている金持ちの屋敷の門前に、ラザロという「できものだらけの貧しい人」が横たわり、物乞いをしながら飢えをしのぎ、生きていました。やがてラザロは死んで、天にある宴会場に天使たちに連れて行かれ、他方、金持ちは陰府に行って、炎にさいなまれながら後悔し、生きている自分の親族のところにラザロを遣わして、生き方を注意してほしいと願う話です。私は、富を持っていて、笑って過ごせること自体が悪いとは思いません。ただ、自分の持っているもの、神様から与えられているものを独り占めにして、持っていない人と全く分かち合おうとしない生き方が、神の国にふさわしくない、すなわち「罪」なのだと思うのです。
例えば、世界の人口の20%の人間が食糧の80%を独占し、80%の人々が残りの20%の食糧で飢えをしのぎ、暮らしていると言われています。食糧がないのではなく、この世にある食糧を分かち合えば、飢えている人はいなくなるとも言われます。さまざまな状況の人がいらっしゃることと思いますが、概ね私たち日本人は、食糧を独占している20%の人間の側です。食糧問題は政治の課題でしょうし、私は政治家ではありません。けれども、神様を信じる一人として、何かできることがある。神の国にふさわしい、分かち合う、慎ましい生き方ができるはずです。お金や食糧だけではありません。精神的な幸いと不幸、喜びや悲しみだって、分かち合うことができます。愛によって互いに寄り添い、癒しと救いを分かち合うことが私たちにはできます。相手を受け入れ、親切に、優しく生きる道があるのです。
それでも、正しく生きることは簡単ではないでしょう。なぜならば、私たちが自分勝手で、強欲だからです。さらに、私たちが正しさの中に生きようとする時、心ない中傷を受けることもあるでしょう。イエス様が仰っているように、正しさのゆえに迫害を受け、汚名を着せられることもあるでしょう。
私たちは何が正しいかを知っていながら、中傷されたり、仲間はずれにされることを恐れて、本来あるべき姿から離れ、自分の安泰を優先させてはいないでしょうか。しかし、イエス様はこうも仰っています。「人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」と。私たちが主の弟子として正しく生きようとするなら、そこには大きな報い、神様からの大きな恵みがあるのです。
本日の福音書は、「大勢の弟子とおびただしい民衆」に向けて語られたみ言葉でしたが、ここに集まっている私たちは、言わば、「現代における主の弟子たち」です。その弟子である私たちに、イエス様は直接に語られているのです。ですから、他人事ではなく自分の事として、あの人の生活ではなく自分の生活に当てはめて、イエス様の語られるみ言葉に耳を傾けたいと思います。繰り返しになりますが、私たちは弱い存在です。つまずくことや、自らの思いや欲望を優先させ、罪を犯すこともしばしばですが、み言葉に励まされ、聖霊の働きに支えられて、神の国を目指す道を歩んでいきたいものです。
父と子と聖霊の御名によって アーメン