礼拝時に読まれる福音書の補足を 「今さらですが‥・」シリーズ として宇田司祭が週報に書かれていますので、こちらに転記しておきます。
 右記福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。

本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
著作権所有者は下記の通りです。
 (c)共同訳聖書実行委員会
  Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会
  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

降臨後第二主日 2016年1月3日
マタイによる福音書 第2章13-23節
名無しの権兵衛、ではない!

 クリスマスの日にベツレヘムの馬小屋でお生まれになった幼子はイエス(主は救いという意味でヨシュアと同じだそうです。)と言うお名前を付けられました。めでたし、めでたし、です。というのも、名前がつかないと幼子に呼びかけることもできませんし、従ってそのお方と特定することができないからです。名前がつかない状態では存在を認められません。せっかくヨセフさんとマリヤさんが住民登録をするためにベツレヘムまで遠路旅してきましたのに生まれた赤ちゃんが登録できない、つまり存在が公認されないということなのですから。

 私たちは誰でも名前を持っております。名前で呼ばれることによって私たちは私であることが認められるのです。クリスマスの幼子は名無しの権兵衛さんではなく、イエスというお名前が付けられましたから私たちは今日「主イエスよ!」と祈ることが許されたのです。しかも、主は救いである、というお方に向かって。

 主は救いである、このイエスのみ名によってのみ、救いがもたらされるのだ、とこの世に宣言し、新しい一年を始めましょう。


















顕現後第1主日 2016年1月10日
ルカによる福音書 第3章15-22節
水は3尺流れると清い! しかし…

 川は流れると自浄作用が働くので、常に清いと信じられていたようです。そのために川を生活用水として用いていた地方ではよく、伝染病が蔓延しました。日本でば東京オリンピックの頃がら上水道が普及し、水を媒介とする伝染病は随分少なくなったといわれます。

 主イエスさまの時代は、水はどこでも豊かではありませんでした。今日の福音書の舞台となっている地方でも水はふんだんにあるものではなく、水の流れる低地に降りて行かなければないものでした。

 人々は洗礼者聖ヨハネが洗礼を施してくれるこの地球上で最も低いところを流れるヨルダン川まで下って行かなければならなかったのです。「謙遜」という言葉は「へりくだる」という言葉そのものです。人は低きに自ら下るときにはじめて謙虚であることができます。主イエスさまは謙遜の極みの姿をとられ、洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けられたのです。

 私たち洗礼を受けたものは主イエスさまの謙遜の姿に倣うものでなければ主イエスさまの名による洗礼を受けたものとはなり得ないのです。威張ったり、かっこつけてはいけナインです。小さきものとすべきなのです。








顕現後第2主日 2016年1月17日
ヨハネによる福音書 第1章1-11節
最高級のぶどう酒へと…

寒村カナでの婚宴の席、宴たけなわで祝いのぶどう酒が品切れになってしまったという。なんとも興ざめのする事態です。マリヤさんは息子イエスを呼び寄せ、「何とかしてやってよ。」と難題を。

主イエスは外出から帰ったときに身を清めるための水甕に水を目いっぱい注がせ、ふるまい頭のところに運ばせたのです。すると甕は極上のぶどう酒に満たされていたのです。花婿は面目を失うことを免れました。本日の福音書は花婿の危急を救ってやった、ということを主題にしているのではもちろん、ありません。また酒飲みに酒をたくさん飲ませてやったということでもありません。何の変哲もない水であっても主イエスが命じられると極上のぶどう酒に変えられる、という点に注目したいのです。

「私は違う!」という方もおられることでしょうが、私たちは多かれ少なかれ『ダメ」な部分を抱えています。なぜrなら、私たちは人間であって神ではありませんから不完全さを常に抱えて生きているものです。

そんな私たちであっても、主イエス様の手にかかると地の低いところをちょろちょろ流れるような水であっても極上のぶどう酒に変えられるように最高の存在へと変えられる、というのです。万歳1ですよね。主イエス様に出会えて本当によかったですね。


顕現後第3主日 2016年1月24日
ルカによる福音書 第4章14-21節
ほら−つ!サインをしっかり見て−つ!

 見ても見ていない、聞いてみ聞いていないと言うことは何時でも起こりうることです。見たこと聞いたことをしっかり認識するところまで行っていないと耳に入り、目に入っても聞き流し見過ごしてしまいます。

 聖書を読み、預言者の教えを聞いても自分に語り掛ける神様の声と認識していないならそれらは雑音、騒音でしかありえないのです。心が何かでいっぱいになっているとき、目に見ていること、耳で聞いていることが通り過ぎて行ってしまうのです。

 実は、神さまは何時も、私たちにサインを送り続けておられるのです。ところが下手くそな私たち人間はよそ見をしていたりをしていたり、他のことに気を取られていて、或いはうっかりしていて注意散漫でサインを見落としてしまっているのです。

 神さまからのサインを意味あるものとして受け止めるなら、神さまが私たちにいかに深い関心を寄せていてくださるかと言うこと、温かい眼差しを注いでいてくださるかということが分かることでしょう。

 「ほら、聖書の中でこんなにはっきりと示されているではないですか」と主イエスさまは人々に語り掛け、同時に私たちにも教えておられるのです。





顕現後第4主日 2016年1月31日
ルカによる福音書 第4章21−32節
その言葉には権威があった!

 安息日ごとに出席されたシナゴーグでの集会で主イエスさまは会堂長から聖書朗読者に指名されることがしばしばであったようです。そして一番最後の朗読者として朗読個所についてコメントすることもしばしばであったようです。

 主イエスさまが語られるのを聞いた人々は主イエスさまの育たれた様子を知っていたので驚きを禁じ得なかったようです。誰か高名な学者から学んだ訳でもないにも拘らず核心を衝く内容を確信を持って語られたからです。

 人は語る人の姿、形をもって語られる内容をの軽重を判断することが多いようですが、主イエスさまが語られる内容は人々の心を突き動かさずには居られなかったのです。また、心を突き動かされた人々だけがそこに神さまの御心を知ることができたのです。

 権威は振りかざすものではなく、認められるときにおのずとそこに生まれるものではないでしょうか。心を空虚にして耳を傾けることができる人のみが語られることの真実を知ることができるでしょう。「主よ、お話しください。しもべは聞きます。」という姿勢が大切であるとされる所以でしょう。「聞く耳あるものは聞くがよい」と言われては大変ですよ。












大斎節前主日 2016年2月7日
ルカによる福音書 第9章28−36節
なぜ、山に登るのですか?

 登山を志す人に向けられ続けてきた問いですね。山の魅力は登ろうとする人々には説明できないが引き付けられて止まないものがあるそうです。子供と歩いていると子供は興味を惹かれるところに一直線に向かっていきます。そしてより高いところを目指すようです。

 向上心は称賛されますが向下心(こんな言葉があるとすればですが)を称賛されることはまずないことでしょうし、上流社会に憧れつつも果たせないので自らを中流と位置付けて自らを慰める。それすら叶わなくなり下流老人に甘んじる。私たちには「高み」こそ目指すべき目標あり、とする傾向があるようです。

 主イエスさまも神さまにお会いできるところ、として高い山を弟子たちに教えられたようです。実際、イスラエルでは高ければ高いところ程、神さまに近づけると考えられていました。香を焚く、犠牲を焼くことで、その煙と共に祈りが神さまに届くと考えられていたのです。

 主イエスさまは弟子たちを高い山に伴い、モーセや預言者と語り合う姿を通してご自身を神の子であることを示されたのです。そして主イエスさまに聞き従うことこそ、神さまのみ心を知ることができるのだ、ということを教えられたのです。









大斎節第1主日 2016年2月14日
ルカによる福音書 第4章1−13節
四十はキーポイントですね。

 中国の哲人によれば三十は立志、四十は不惑と言うことのようですが、四十と言う数字には人生のターニングポイントとか重要なキーポイントとでもいうような意味があるように思います。

 聖書の中にも四十と言う数字が何回か出てきます。そしてその時には重大な場面が展開します。ノアの洪水の時、雨は四十日四十夜降り続け、その後に神さまの祝福が示されました。モーセに率いられたイスラエルの人々は四十年荒野を彷徨った後に神さまが約束してくださった乳と蜜の流れる地に入ることができました。また、かの預言者は四十日砂漠を分け入るように歩き続けて神さまに出会うことができました。

 主イエスさまは父なる神さまのみ心を聴くために荒野で四十日四十夜祈りと断食の日を過ごされました。ここに大斎節の原型ともいうべきものの一つがあります。ボンクラの私たちが神さまのみ心を聴くためには決して十分な時間ではないはずですが、せめて四十日間神さまに心を集中させる日として努めたいものであります。その結果が大斎克己献金として表われることになることでしょう。ムム!















大斎節第2主日 2016年2月21日
ルカによる福音書 第13章31−35節
生兵法は怪我の元!

 荒野で四十日四十夜祈りと断食をして修養されていた主イエスさまに誘惑する者が激しく臨みました。この誘惑を主イエスさまは聖書に書かれている言葉を用いて退けられました。

 本来、全能の神さまの御子である主イエスさまですからご自分の力だけで誘惑するものを退けることができたはずです。しかし、主イエスさまは敢えて聖書の言葉、父なる神さまの力をもって誘惑を退けられたのです。

 それは私たちが自らの力で誘惑を退けることができないことを知っておられた、いやそれ以上に自らの力で誘惑を退けようとすることが如何に危険なことであるかを知っておられ、私たちを導こうとされたからなので しょう。巧妙な誘惑するものはあの手この手で私たちに誘惑を受け入れる理由を考えてくれるからです。私たちが立ち向かおうとすればするほど、さらにその上をいく、それが誘惑するもの、神さまから私たちを引き離そ うとする勢力・サタンの姿なのです。

 どうぞ、初手からサタンには勝てないわたしたちであることを認めてしまいましょう。そして神さまのお力をお借りしてサタンに立ち向かうことに致しましょう。そうすれば必ず、神さまは私たちに力を貸してくださいます。 くれぐれも自己過信しないことですぞ。生兵法は怪我の元!

大斎節第3主日 2016年2月28日
ルカによる福音書 第13章1−9節
見切り発車はされない父なる神さま

 受験の合否を早く知りたい、抽選の結果を早く知りたい等々、すべからく結果を早く知りたい、答えを早く知りたい、これは万人に共通する願望と言えるでしょう。 そのため、わたしたちは自分の受け入れやすい理屈を考えだし、結論付けてしまうことがままあります。確かに、自分の納得のゆく結論を早く得られるならば安心は安 心でしょう。しかし、そこには常に拙速に陥る危険が伴います。むしろ、危険性というよりも愚かな存在である私たち人間には避けられない必然でありましょう。

 主イエスさまは今日の福音書で神さまが忍耐をもって私たちの悔い改めを待っておられることを教えつつ、私たちに拙速な判断に陥ることなく、神さまを信頼して 神さまのみ心の示される時を待つことを教えておられるように思います。

 近年の情報伝達速度も、その量も加速度的に増加している状況は、さらにさらに私たちに判断を早くするよう要求してきます。ある意味、これも神さまから私た ちを引き離そうとする悪魔的な力であるといえないでしょうか。

 この世の風潮に流されることなく、神さまに信頼してジッと待つことが今ほど望まれる時はないと言えないでしょうか。






大斎節第4主日 2016年3月6日
ルカによる福音書 第15章11−32節
赦された放蕩息子。
なぜ、赦して頂けたのだろう。

 父親に財産分与を要求し、勝手に外国へ飛び出していった若いほうの息子は放蕩の限りを尽くして全財産を失ってしまった。折悪しくその地方を飢鯉が襲い 誰もが困窮を極めた。金目当てに取り巻きのようにしていたものは皆いなくなり、日々の食にすら事欠くようになった若いほうの息子は父のいる家に帰ろうとした。息子の帰る姿を認めた父親はよく仕えて家業に励んだ上の息子をほおっておいて若いほうの息子を迎え入れたという。

 上の息子としてはそんな父親を腹立たしく思い、家に入ろうともしなかった。そこで父親は上の息子をなだめながら言う。失ったと思っていた弟息子が思いもがけず戻ってきたのだからよろこぼうよ、と。

 キリスト教は赦しの宗教だと一般に思われているようです。ほんとうでしょうか。

 実は父親の赦しと受け入れの前段があるのです。即ち、息子の心からの悔い改めと父のもとに立ち返ろうとの決意です、この息子の悔い改めと立ち返りの決心なしには父親の赦しも受け入れもあり得ないのです。

 悔い改めと立ち返りの決心あるところにのみ神さまの赦しと受け入れが備えられているのです。申し開きなしに悔い改め立ち返る決心をする私たちでありたい。
































大斎節第5主日 2016年3月13日
ルカによる福音書 第20章9−19節
私たちの良心を救い
あなたに仕えさせてください

 永らく子供に恵まれなかったアブラハムは後継者を信頼する奴隷とすることにしていた、と創世記は記しています。身内に後継者がいなくなれば、農園は自分たちのものになる、と小作人の農夫たちが考え、地主から土地を奪おうとした。そこで年貢を取り立てに来た地主の息子を殺してしまった。これが主イエスさまが語ったたとえ話です。

 本来の持ち主から不当な手段を用いて奪い取り、自分たちのものとしてしまっている。当時の宗教指導者・宗教貴族は自分たちに対する痛烈な非難として主イエスさまが語られた、と受け止めたとあります。

 「神さまのものは神さまに返しなさい」これが主イエスさまの一貫した主張でした。それなのに何事につけ既得権益として自分の都合のよい扱いをしてしまう、人間の狡さ、邪悪さ。これはむしろ人間の弱さとでもいうべきかもしれません。

 私たちの思いが神さまを踏みつけ無視し暴走することなく、神さまに従い、神さまに従う者であり続けることができるようにしてください、と祈り求めましょう。神さまの財産乗っ取り犯なんて言われないように。













復活前主日 2016年3月20日
ルカによる福音書 第23章1−49節
「万歳!君に会えてよかった。」
その熱狂、何時まで続く?

 今までにない話し方で民衆に語り掛け、今まで見たこともない不思議な業を繰り返し行われたお方、主イエスさまがエルサレムに来られる。このニュースを聞いた人々は胸を躍らせました。この方こそ、長い間預言者たちによって語りつながれてきた「イスラエルを外国の圧政から解放されるイイスラエルの王」に違いない、と思ったのです。ですからエルサレムの門を入ってこられる主イエスさまを万歳1万歳!(ホサナ、ホサナ)と叫んで歓迎したのです。

 群衆の熱狂的な感情ほど変わりやすいものはない、このことばの典型のような情景がエルサレムの群衆の間で起こりました。自分たちの思い描く姿との隔たりを知るにつけ、人々の熱狂は冷め、失望からついには憎悪へと変わっていったのです。

 自分の思い描く型に神さまをはめ込もうとする人は必ず、失望することでしょう。神さまは神さまであって私たちの欲望、願望が形をとって現われるものとは違うのです。でもその勘違いを私たちは笑うことはできません。

 神さまを信じても、自分自身、自身の願望の成就とを同一視することがありませんように。すべてを委ねて神さまに従うことができますように。














































































復活日 2016年3月27日
ルカによる福音書 第24章1−10節
立ち上がれ、立ち上がれ!
その熱狂、何時まで続く?

 熱狂的をもってエルサレムに迎え入れられた主イエスさまでしたが、やがて群衆は自分たちの思い描くメシアとの違いに落胆失望し、ついには十字架につけて 殺してしまいました。

 その十字架の死から3日目の朝、遺体の手当て出かけて行った婦人たちは空っぽになっているお墓を見たのです。そしてそれは主イエスさまが死人のうちから甦 った結果であることを教えられたのです。

 主イエスさまは死人のうちから甦るという出来事を通して弟子たちを、そして私たちをも教えられたのです。どんな失望も失望のまま終えることはないことを、また どんな人生であっても無価値で無駄な人生はないと言うことを。「だから立ち上がれ、立ち上がれ」と励まして下さっているのです。

 甦る、と言う言葉には「立ち上がる」と言う意味があります。主イエスさまは私たちをあらゆる苦しい、悲しい境遇から立ち上がらせるお方なのです。立ち上がらせ る力の源であることを自らの甦りの出来事によって示されたのです。

 主の復活、ハレルヤ!主の復活万歳1主の復活おめでとう!主の復活ありがとう!みんなで声高らかに歌いましょう。


復活節第二主日 2016年4月3日
ヨハネによる福音書 第20章19−31節
こんにちは!
その熱狂、何時まで続く?

 「ご遺体が無くなった」という出来事に接して弟子たちは最悪の事態を想像し、恐怖におののいたのです。ユダヤ人たちの悪意が今度は自分たちに及ぶのではないか、と。彼らは迫害を恐れて潜んでいたのでした。

 その弟子たちの中に主イエスさまが立ち、いつものように挨拶をしたのです。「あなたがたに平安があるように! (シヤローム)」。これは私たちの感覚では「こんにちは」であり、「おはよう」です。さりげなく、いつもと変わりない言葉で挨拶された主イエスさまに接して弟子たちの緊張が一挙に解けたことでしょう。

 主イエスさまは恐怖に震える人々を励まし、不安に駆られる人々に安らぎを与え、絶望にさいなまれる人々に希望を与えられるのです。

 主の十字架上の死とそこからの復活は弟子たちに大きな力を与えたのですbそれゆえに、弟子たちは全世界に出て行って主イエスさまを述べ伝えることができたのです。

 主イエスさまの復活のちからを私たちも頂き、力強く生きてまいりましょう。


















復活節第三主日 2016年4月10日
ヨハネによる福音書 第21章1−14節
さあ、一歩前へ!

 甦られた主イエスさまはいろいろなとき、いろいろなところで弟子たちの前に立たれました。恐れ隠れているところ、落胆して故郷ガリラヤに帰る途上、そして生活の糧を得るための仕事の場にすら現れて主イエスさまはそれぞれの時、ところで弟子たちを教え励まし導かれました。

 それらの状況の中に共通する要素の一つが、弟子たちを積極的に生きるよう導く、というお姿でした。怯え立ちすくんでいないで、疑い迷い立ち止まっていないで、あるいは諦めて投げやりにならないで、そこからしっかりとした一歩を踏み出すように、と働きかけておられるのです。

 深みに漕ぎ出す、と言うことは勇気のいることです。弟子たちは夜通し働いたにもかかわらず収穫がなく徒労感に満たされていましたが、「お言葉ですから」と深みに漕ぎ出し、網を下したとき大漁に恵まれました。

 労り励まし、導いてくださる主イエスさまのお言葉を頼り、一歩前に踏み出すならば、私たちはさらなる喜びへと導かれることでしょうbさあ、一歩前へ!


復活節第四主日 2016年4月17日
ヨハネによる福音書 第1章1−11節
最高級のぶどう酒へと…

 寒村カナでの婚宴の席、宴たけなわで祝いのぶどう酒が品切れになってしまったという。なんとも興ざめのする事態です。マリヤさんは息子イエスを呼び寄せ、「何とかしてやってよ。」と難題を。

 主イエスは外出から帰ったときに身を清めるための水甕に水を目いっぱい注がせ、ふるまい頭のところに運ばせたのです。すると蕊は極上のぶどう酒に満たされていたのです。花婿は面目を失うことを免れました。

 本日の福音書は花婿の危急を救ってやった、ということを主題にしているのではもちろん、ありません。また酒飲みに酒をたくさん飲ませてやったということでもありません。何の変哲もない水であっても主イエスが命じられると極上のぶどう酒に変えられる、という点に注目したいのです。

 「私は違う!」という方もおられることでしょうが、私たちは多かれ少なかれ『ダメ」な部分を抱えています。なぜrなら、私たちは人間であって神ではありませんから不完全さを常に抱えて生きているものです。

 そんな私たちであっても、主イエス様の手にかかると地の低いところをちょろちょろ流れるような水であっても極上のぶどう酒に変えられるように最高の存在へと変えられる、というのです。万歳1ですよね。主イエス様に出会えて本当によかったですね。


復活節第五主日 2016年4月24日
ヨハネによる福音書 第13章31−35節
提を守る?提に守られる?

 人は一人では生きて行けない、とは広く受け容れられていると言っても良いでしょう。社会を形成して行くうえで約束事が生まれます。徒と言われるものです。

 社会を円滑に運営するために「徒」は欠くことのできないものと言えます。それは構成員が勝手気ままに行動することで秩序が維持されず、結果shカウが分裂・公開することを防いでくれます。もちろん「徒」が等しく守られることが大前提です。公平・公正に徒が適用される、ということは「徒」によって構成員が「守られる」と同時に「縛られる」という側面をも持つことなのです。

 権力を握った者が「徒」の「縛る」側面を強く打ち出すとき社会は閉塞感に支配されるものとなります。主イエスさまの時代、人々は政治的にも宗教的にも権力者に縛られる状態にあったと思われます。「○○してはならない」、「○○しなければならない」と。

 主イエスさまは「あなた方に新しい徒を与える」と言われ、「互いに愛し合いなさい」と諭されました。互いに尊重し合い、受け容れ合い、慰め合いも励まし合う《そういう生き方、互いに共感し合う生き方を求めなさいと教えられたのです。そういう人になりたい、そう言う人に成長させて下さい、と祈る私たちでありたいなあ。


復活節第六主日 2016年5月1日
ヨハネによる福音書 第14章23−29節
主が残してくださった

 「虎は毛皮を、人は名を適す」といわれます。虎はともかく人に関しては怪しいものだと思います。むしろ「名」よりも「恥」なら頷けないものではありませんが。

 主イエスさまはご自分に与えつられた時間が極々限られたものであることを十分ご存知でしたから弟子たちに対しても群衆に対しても緊張をもって対時されたものと思われます。

 頭が悪く、心の鈍い弟子たちの心を開き、悟らせようと様々な不思議な業を見せ、種々の教えをされたのはそのような主イエスさまの緊張のなせる業であったと言えましょう。そしてついには「心を騒がせるな、おびえるな。私があなた方についている。平安を与えるから。」とまで言われたのです。ですから何があっても安心していてよいのです。

 「主に従い行くはいかに幸いなるかな、いかに心強きことか、いかに喜ばしいことか」安心して声高らかに歌いつつ日々を生きていってよいのです。





復活節第六主日 2016年5月8日
ヨハネによる福音書 第17章20−26節
主は昇天されました。私たちは召天を望みます。

 父なる神さまのご計画に従って地上での生活を十字架上で終えられた主イエスさまは、復活の後、お弟子たちとなお、40日の間過されてから父なる神さまのみ許へ行かれました。それは全く異なる次元へ移られたということで、教会は「天に昇られた=昇天された」と表現いたします。

 ご復活のみ姿に接し喜びに溢れたのも束の間。お弟子たちはまたまた心細さに襲われることとなりました。しかし、このことは主イエスさまには織り込み済みのことでした。それはかねてから語られていたことなのですがお弟子たちは意識しておりませんでした。

 主イエスさまはお弟子たちのために「ところ」を用意しに行くと語られ、再び来られるその時まで父なる神さまに願って「助け主、弁護者、聖霊」を送って頂く、と約束してくださったのです。お弟子たちを孤児のように放り出すことはしないと約束されたのです。

 主イエスさまのご昇天はわたしたちに新しい望みを与えて下さるものです。この約束の下、わたしたちも招き入れて頂くことを待ち望み、歩むのです。

緑横線

聖書03




マタイによる福音書 第2章13-23節

 2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。

ルカによる福音書 第3章15-22節

民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。ところで、領主ヘロデは、自分の兄弟の妻ヘロディアとのことについて、また、自分の行ったあらゆる悪事について、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込めた。こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

ヨハネによる福音書 第1章1-11節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 1:6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。


ルカによる福音書 第4章14-21節

イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


ルカによる福音書 第4章21-32節

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。

ルカによる福音書 第9章28−36節

この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。

ルカによる福音書 第4章1−13節

さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

ルカによる福音書 第13章31−35節

ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」

ルカによる福音書 第13章1−9節

ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

ルカによる福音書 第15章11−32節

また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

ルカによる福音書 第20章9−19節

 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、/これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。

ルカによる福音書 第23章1−49節

そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。 死刑の判決を受けるピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。 23:46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。

ルカによる福音書 第24章1−10節

そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。見ると、石が墓のわきに転がしてあり、中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが

ヨハネによる福音書 第20章19−31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ヨハネによる福音書 第21章1−14節

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった







ヨハネによる福音書 第1章1−11節

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。




ヨハネによる福音書 第13章31−35節

さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」




ヨハネによる福音書 第14章23−29節

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。

ヨハネによる福音書 第17章20−26節

また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」