右記福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。
本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
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マタイによる福音書 第2章13-23節
名無しの権兵衛、ではない!
クリスマスの日にベツレヘムの馬小屋でお生まれになった幼子はイエス(主は救いという意味でヨシュアと同じだそうです。)と言うお名前を付けられました。めでたし、めでたし、です。というのも、名前がつかないと幼子に呼びかけることもできませんし、従ってそのお方と特定することができないからです。名前がつかない状態では存在を認められません。せっかくヨセフさんとマリヤさんが住民登録をするためにベツレヘムまで遠路旅してきましたのに生まれた赤ちゃんが登録できない、つまり存在が公認されないということなのですから。
私たちは誰でも名前を持っております。名前で呼ばれることによって私たちは私であることが認められるのです。クリスマスの幼子は名無しの権兵衛さんではなく、イエスというお名前が付けられましたから私たちは今日「主イエスよ!」と祈ることが許されたのです。しかも、主は救いである、というお方に向かって。
主は救いである、このイエスのみ名によってのみ、救いがもたらされるのだ、とこの世に宣言し、新しい一年を始めましょう。
顕現後第1主日 2016年1月10日
ルカによる福音書 第3章15-22節
水は3尺流れると清い! しかし…
川は流れると自浄作用が働くので、常に清いと信じられていたようです。そのために川を生活用水として用いていた地方ではよく、伝染病が蔓延しました。日本でば東京オリンピックの頃がら上水道が普及し、水を媒介とする伝染病は随分少なくなったといわれます。
主イエスさまの時代は、水はどこでも豊かではありませんでした。今日の福音書の舞台となっている地方でも水はふんだんにあるものではなく、水の流れる低地に降りて行かなければないものでした。
人々は洗礼者聖ヨハネが洗礼を施してくれるこの地球上で最も低いところを流れるヨルダン川まで下って行かなければならなかったのです。「謙遜」という言葉は「へりくだる」という言葉そのものです。人は低きに自ら下るときにはじめて謙虚であることができます。主イエスさまは謙遜の極みの姿をとられ、洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けられたのです。
私たち洗礼を受けたものは主イエスさまの謙遜の姿に倣うものでなければ主イエスさまの名による洗礼を受けたものとはなり得ないのです。威張ったり、かっこつけてはいけナインです。小さきものとすべきなのです。
顕現後第2主日 2016年1月17日
ヨハネによる福音書 第1章1-11節
最高級のぶどう酒へと…
寒村カナでの婚宴の席、宴たけなわで祝いのぶどう酒が品切れになってしまったという。なんとも興ざめのする事態です。マリヤさんは息子イエスを呼び寄せ、「何とかしてやってよ。」と難題を。
主イエスは外出から帰ったときに身を清めるための水甕に水を目いっぱい注がせ、ふるまい頭のところに運ばせたのです。すると甕は極上のぶどう酒に満たされていたのです。花婿は面目を失うことを免れました。本日の福音書は花婿の危急を救ってやった、ということを主題にしているのではもちろん、ありません。また酒飲みに酒をたくさん飲ませてやったということでもありません。何の変哲もない水であっても主イエスが命じられると極上のぶどう酒に変えられる、という点に注目したいのです。
「私は違う!」という方もおられることでしょうが、私たちは多かれ少なかれ『ダメ」な部分を抱えています。なぜrなら、私たちは人間であって神ではありませんから不完全さを常に抱えて生きているものです。
そんな私たちであっても、主イエス様の手にかかると地の低いところをちょろちょろ流れるような水であっても極上のぶどう酒に変えられるように最高の存在へと変えられる、というのです。万歳1ですよね。主イエス様に出会えて本当によかったですね。
顕現後第3主日 2016年1月24日
ルカによる福音書 第4章14-21節
ほら−つ!サインをしっかり見て−つ!
見ても見ていない、聞いてみ聞いていないと言うことは何時でも起こりうることです。見たこと聞いたことをしっかり認識するところまで行っていないと耳に入り、目に入っても聞き流し見過ごしてしまいます。
聖書を読み、預言者の教えを聞いても自分に語り掛ける神様の声と認識していないならそれらは雑音、騒音でしかありえないのです。心が何かでいっぱいになっているとき、目に見ていること、耳で聞いていることが通り過ぎて行ってしまうのです。
実は、神さまは何時も、私たちにサインを送り続けておられるのです。ところが下手くそな私たち人間はよそ見をしていたりをしていたり、他のことに気を取られていて、或いはうっかりしていて注意散漫でサインを見落としてしまっているのです。
神さまからのサインを意味あるものとして受け止めるなら、神さまが私たちにいかに深い関心を寄せていてくださるかと言うこと、温かい眼差しを注いでいてくださるかということが分かることでしょう。
「ほら、聖書の中でこんなにはっきりと示されているではないですか」と主イエスさまは人々に語り掛け、同時に私たちにも教えておられるのです。
顕現後第4主日 2016年1月31日
ルカによる福音書 第4章21−32節
その言葉には権威があった!
安息日ごとに出席されたシナゴーグでの集会で主イエスさまは会堂長から聖書朗読者に指名されることがしばしばであったようです。そして一番最後の朗読者として朗読個所についてコメントすることもしばしばであったようです。
主イエスさまが語られるのを聞いた人々は主イエスさまの育たれた様子を知っていたので驚きを禁じ得なかったようです。誰か高名な学者から学んだ訳でもないにも拘らず核心を衝く内容を確信を持って語られたからです。
人は語る人の姿、形をもって語られる内容をの軽重を判断することが多いようですが、主イエスさまが語られる内容は人々の心を突き動かさずには居られなかったのです。また、心を突き動かされた人々だけがそこに神さまの御心を知ることができたのです。
権威は振りかざすものではなく、認められるときにおのずとそこに生まれるものではないでしょうか。心を空虚にして耳を傾けることができる人のみが語られることの真実を知ることができるでしょう。「主よ、お話しください。しもべは聞きます。」という姿勢が大切であるとされる所以でしょう。「聞く耳あるものは聞くがよい」と言われては大変ですよ。
大斎節前主日 2016年2月7日
ルカによる福音書 第9章28−36節
なぜ、山に登るのですか?
登山を志す人に向けられ続けてきた問いですね。山の魅力は登ろうとする人々には説明できないが引き付けられて止まないものがあるそうです。子供と歩いていると子供は興味を惹かれるところに一直線に向かっていきます。そしてより高いところを目指すようです。
向上心は称賛されますが向下心(こんな言葉があるとすればですが)を称賛されることはまずないことでしょうし、上流社会に憧れつつも果たせないので自らを中流と位置付けて自らを慰める。それすら叶わなくなり下流老人に甘んじる。私たちには「高み」こそ目指すべき目標あり、とする傾向があるようです。
主イエスさまも神さまにお会いできるところ、として高い山を弟子たちに教えられたようです。実際、イスラエルでは高ければ高いところ程、神さまに近づけると考えられていました。香を焚く、犠牲を焼くことで、その煙と共に祈りが神さまに届くと考えられていたのです。
主イエスさまは弟子たちを高い山に伴い、モーセや預言者と語り合う姿を通してご自身を神の子であることを示されたのです。そして主イエスさまに聞き従うことこそ、神さまのみ心を知ることができるのだ、ということを教えられたのです。
大斎節第1主日 2016年2月14日
ルカによる福音書 第4章1−13節
四十はキーポイントですね。
中国の哲人によれば三十は立志、四十は不惑と言うことのようですが、四十と言う数字には人生のターニングポイントとか重要なキーポイントとでもいうような意味があるように思います。
聖書の中にも四十と言う数字が何回か出てきます。そしてその時には重大な場面が展開します。ノアの洪水の時、雨は四十日四十夜降り続け、その後に神さまの祝福が示されました。モーセに率いられたイスラエルの人々は四十年荒野を彷徨った後に神さまが約束してくださった乳と蜜の流れる地に入ることができました。また、かの預言者は四十日砂漠を分け入るように歩き続けて神さまに出会うことができました。
主イエスさまは父なる神さまのみ心を聴くために荒野で四十日四十夜祈りと断食の日を過ごされました。ここに大斎節の原型ともいうべきものの一つがあります。ボンクラの私たちが神さまのみ心を聴くためには決して十分な時間ではないはずですが、せめて四十日間神さまに心を集中させる日として努めたいものであります。その結果が大斎克己献金として表われることになることでしょう。ムム!
大斎節第2主日 2016年2月21日
ルカによる福音書 第13章31−35節
生兵法は怪我の元!
荒野で四十日四十夜祈りと断食をして修養されていた主イエスさまに誘惑する者が激しく臨みました。この誘惑を主イエスさまは聖書に書かれている言葉を用いて退けられました。
本来、全能の神さまの御子である主イエスさまですからご自分の力だけで誘惑するものを退けることができたはずです。しかし、主イエスさまは敢えて聖書の言葉、父なる神さまの力をもって誘惑を退けられたのです。
それは私たちが自らの力で誘惑を退けることができないことを知っておられた、いやそれ以上に自らの力で誘惑を退けようとすることが如何に危険なことであるかを知っておられ、私たちを導こうとされたからなので しょう。巧妙な誘惑するものはあの手この手で私たちに誘惑を受け入れる理由を考えてくれるからです。私たちが立ち向かおうとすればするほど、さらにその上をいく、それが誘惑するもの、神さまから私たちを引き離そ うとする勢力・サタンの姿なのです。
どうぞ、初手からサタンには勝てないわたしたちであることを認めてしまいましょう。そして神さまのお力をお借りしてサタンに立ち向かうことに致しましょう。そうすれば必ず、神さまは私たちに力を貸してくださいます。 くれぐれも自己過信しないことですぞ。生兵法は怪我の元!
大斎節第3主日 2016年2月28日ルカによる福音書 第13章1−9節
見切り発車はされない父なる神さま
受験の合否を早く知りたい、抽選の結果を早く知りたい等々、すべからく結果を早く知りたい、答えを早く知りたい、これは万人に共通する願望と言えるでしょう。 そのため、わたしたちは自分の受け入れやすい理屈を考えだし、結論付けてしまうことがままあります。確かに、自分の納得のゆく結論を早く得られるならば安心は安 心でしょう。しかし、そこには常に拙速に陥る危険が伴います。むしろ、危険性というよりも愚かな存在である私たち人間には避けられない必然でありましょう。
主イエスさまは今日の福音書で神さまが忍耐をもって私たちの悔い改めを待っておられることを教えつつ、私たちに拙速な判断に陥ることなく、神さまを信頼して 神さまのみ心の示される時を待つことを教えておられるように思います。
近年の情報伝達速度も、その量も加速度的に増加している状況は、さらにさらに私たちに判断を早くするよう要求してきます。ある意味、これも神さまから私た ちを引き離そうとする悪魔的な力であるといえないでしょうか。
この世の風潮に流されることなく、神さまに信頼してジッと待つことが今ほど望まれる時はないと言えないでしょうか。
大斎節第4主日 2016年3月6日
ルカによる福音書 第15章11−32節
赦された放蕩息子。
なぜ、赦して頂けたのだろう。
父親に財産分与を要求し、勝手に外国へ飛び出していった若いほうの息子は放蕩の限りを尽くして全財産を失ってしまった。折悪しくその地方を飢鯉が襲い 誰もが困窮を極めた。金目当てに取り巻きのようにしていたものは皆いなくなり、日々の食にすら事欠くようになった若いほうの息子は父のいる家に帰ろうとした。息子の帰る姿を認めた父親はよく仕えて家業に励んだ上の息子をほおっておいて若いほうの息子を迎え入れたという。
上の息子としてはそんな父親を腹立たしく思い、家に入ろうともしなかった。そこで父親は上の息子をなだめながら言う。失ったと思っていた弟息子が思いもがけず戻ってきたのだからよろこぼうよ、と。
キリスト教は赦しの宗教だと一般に思われているようです。ほんとうでしょうか。
実は父親の赦しと受け入れの前段があるのです。即ち、息子の心からの悔い改めと父のもとに立ち返ろうとの決意です、この息子の悔い改めと立ち返りの決心なしには父親の赦しも受け入れもあり得ないのです。
悔い改めと立ち返りの決心あるところにのみ神さまの赦しと受け入れが備えられているのです。申し開きなしに悔い改め立ち返る決心をする私たちでありたい。
大斎節第5主日 2016年3月13日
ルカによる福音書 第20章9−19節
私たちの良心を救い
あなたに仕えさせてください
永らく子供に恵まれなかったアブラハムは後継者を信頼する奴隷とすることにしていた、と創世記は記しています。身内に後継者がいなくなれば、農園は自分たちのものになる、と小作人の農夫たちが考え、地主から土地を奪おうとした。そこで年貢を取り立てに来た地主の息子を殺してしまった。これが主イエスさまが語ったたとえ話です。
本来の持ち主から不当な手段を用いて奪い取り、自分たちのものとしてしまっている。当時の宗教指導者・宗教貴族は自分たちに対する痛烈な非難として主イエスさまが語られた、と受け止めたとあります。
「神さまのものは神さまに返しなさい」これが主イエスさまの一貫した主張でした。それなのに何事につけ既得権益として自分の都合のよい扱いをしてしまう、人間の狡さ、邪悪さ。これはむしろ人間の弱さとでもいうべきかもしれません。
私たちの思いが神さまを踏みつけ無視し暴走することなく、神さまに従い、神さまに従う者であり続けることができるようにしてください、と祈り求めましょう。神さまの財産乗っ取り犯なんて言われないように。
復活前主日 2016年3月20日
ルカによる福音書 第23章1−49節
「万歳!君に会えてよかった。」
その熱狂、何時まで続く?
今までにない話し方で民衆に語り掛け、今まで見たこともない不思議な業を繰り返し行われたお方、主イエスさまがエルサレムに来られる。このニュースを聞いた人々は胸を躍らせました。この方こそ、長い間預言者たちによって語りつながれてきた「イスラエルを外国の圧政から解放されるイイスラエルの王」に違いない、と思ったのです。ですからエルサレムの門を入ってこられる主イエスさまを万歳1万歳!(ホサナ、ホサナ)と叫んで歓迎したのです。
群衆の熱狂的な感情ほど変わりやすいものはない、このことばの典型のような情景がエルサレムの群衆の間で起こりました。自分たちの思い描く姿との隔たりを知るにつけ、人々の熱狂は冷め、失望からついには憎悪へと変わっていったのです。
自分の思い描く型に神さまをはめ込もうとする人は必ず、失望することでしょう。神さまは神さまであって私たちの欲望、願望が形をとって現われるものとは違うのです。でもその勘違いを私たちは笑うことはできません。
神さまを信じても、自分自身、自身の願望の成就とを同一視することがありませんように。すべてを委ねて神さまに従うことができますように。
復活日 2016年3月27日
ルカによる福音書 第24章1−10節
立ち上がれ、立ち上がれ!
その熱狂、何時まで続く?
熱狂的をもってエルサレムに迎え入れられた主イエスさまでしたが、やがて群衆は自分たちの思い描くメシアとの違いに落胆失望し、ついには十字架につけて 殺してしまいました。
その十字架の死から3日目の朝、遺体の手当て出かけて行った婦人たちは空っぽになっているお墓を見たのです。そしてそれは主イエスさまが死人のうちから甦 った結果であることを教えられたのです。
主イエスさまは死人のうちから甦るという出来事を通して弟子たちを、そして私たちをも教えられたのです。どんな失望も失望のまま終えることはないことを、また どんな人生であっても無価値で無駄な人生はないと言うことを。「だから立ち上がれ、立ち上がれ」と励まして下さっているのです。
甦る、と言う言葉には「立ち上がる」と言う意味があります。主イエスさまは私たちをあらゆる苦しい、悲しい境遇から立ち上がらせるお方なのです。立ち上がらせ る力の源であることを自らの甦りの出来事によって示されたのです。
主の復活、ハレルヤ!主の復活万歳1主の復活おめでとう!主の復活ありがとう!みんなで声高らかに歌いましょう。
復活節第二主日 2016年4月3日
ヨハネによる福音書 第20章19−31節
こんにちは!
その熱狂、何時まで続く?
「ご遺体が無くなった」という出来事に接して弟子たちは最悪の事態を想像し、恐怖におののいたのです。ユダヤ人たちの悪意が今度は自分たちに及ぶのではないか、と。彼らは迫害を恐れて潜んでいたのでした。
その弟子たちの中に主イエスさまが立ち、いつものように挨拶をしたのです。「あなたがたに平安があるように! (シヤローム)」。これは私たちの感覚では「こんにちは」であり、「おはよう」です。さりげなく、いつもと変わりない言葉で挨拶された主イエスさまに接して弟子たちの緊張が一挙に解けたことでしょう。
主イエスさまは恐怖に震える人々を励まし、不安に駆られる人々に安らぎを与え、絶望にさいなまれる人々に希望を与えられるのです。
主の十字架上の死とそこからの復活は弟子たちに大きな力を与えたのですbそれゆえに、弟子たちは全世界に出て行って主イエスさまを述べ伝えることができたのです。
主イエスさまの復活のちからを私たちも頂き、力強く生きてまいりましょう。
復活節第三主日 2016年4月10日
ヨハネによる福音書 第21章1−14節
さあ、一歩前へ!
甦られた主イエスさまはいろいろなとき、いろいろなところで弟子たちの前に立たれました。恐れ隠れているところ、落胆して故郷ガリラヤに帰る途上、そして生活の糧を得るための仕事の場にすら現れて主イエスさまはそれぞれの時、ところで弟子たちを教え励まし導かれました。
それらの状況の中に共通する要素の一つが、弟子たちを積極的に生きるよう導く、というお姿でした。怯え立ちすくんでいないで、疑い迷い立ち止まっていないで、あるいは諦めて投げやりにならないで、そこからしっかりとした一歩を踏み出すように、と働きかけておられるのです。
深みに漕ぎ出す、と言うことは勇気のいることです。弟子たちは夜通し働いたにもかかわらず収穫がなく徒労感に満たされていましたが、「お言葉ですから」と深みに漕ぎ出し、網を下したとき大漁に恵まれました。
労り励まし、導いてくださる主イエスさまのお言葉を頼り、一歩前に踏み出すならば、私たちはさらなる喜びへと導かれることでしょうbさあ、一歩前へ!
復活節第四主日 2016年4月17日
ヨハネによる福音書 第1章1−11節
最高級のぶどう酒へと…
寒村カナでの婚宴の席、宴たけなわで祝いのぶどう酒が品切れになってしまったという。なんとも興ざめのする事態です。マリヤさんは息子イエスを呼び寄せ、「何とかしてやってよ。」と難題を。
主イエスは外出から帰ったときに身を清めるための水甕に水を目いっぱい注がせ、ふるまい頭のところに運ばせたのです。すると蕊は極上のぶどう酒に満たされていたのです。花婿は面目を失うことを免れました。
本日の福音書は花婿の危急を救ってやった、ということを主題にしているのではもちろん、ありません。また酒飲みに酒をたくさん飲ませてやったということでもありません。何の変哲もない水であっても主イエスが命じられると極上のぶどう酒に変えられる、という点に注目したいのです。
「私は違う!」という方もおられることでしょうが、私たちは多かれ少なかれ『ダメ」な部分を抱えています。なぜrなら、私たちは人間であって神ではありませんから不完全さを常に抱えて生きているものです。
そんな私たちであっても、主イエス様の手にかかると地の低いところをちょろちょろ流れるような水であっても極上のぶどう酒に変えられるように最高の存在へと変えられる、というのです。万歳1ですよね。主イエス様に出会えて本当によかったですね。
復活節第五主日 2016年4月24日
ヨハネによる福音書 第13章31−35節
提を守る?提に守られる?
人は一人では生きて行けない、とは広く受け容れられていると言っても良いでしょう。社会を形成して行くうえで約束事が生まれます。徒と言われるものです。
社会を円滑に運営するために「徒」は欠くことのできないものと言えます。それは構成員が勝手気ままに行動することで秩序が維持されず、結果shカウが分裂・公開することを防いでくれます。もちろん「徒」が等しく守られることが大前提です。公平・公正に徒が適用される、ということは「徒」によって構成員が「守られる」と同時に「縛られる」という側面をも持つことなのです。
権力を握った者が「徒」の「縛る」側面を強く打ち出すとき社会は閉塞感に支配されるものとなります。主イエスさまの時代、人々は政治的にも宗教的にも権力者に縛られる状態にあったと思われます。「○○してはならない」、「○○しなければならない」と。
主イエスさまは「あなた方に新しい徒を与える」と言われ、「互いに愛し合いなさい」と諭されました。互いに尊重し合い、受け容れ合い、慰め合いも励まし合う《そういう生き方、互いに共感し合う生き方を求めなさいと教えられたのです。そういう人になりたい、そう言う人に成長させて下さい、と祈る私たちでありたいなあ。
復活節第六主日 2016年5月1日
ヨハネによる福音書 第14章23−29節
主が残してくださった
「虎は毛皮を、人は名を適す」といわれます。虎はともかく人に関しては怪しいものだと思います。むしろ「名」よりも「恥」なら頷けないものではありませんが。
主イエスさまはご自分に与えつられた時間が極々限られたものであることを十分ご存知でしたから弟子たちに対しても群衆に対しても緊張をもって対時されたものと思われます。
頭が悪く、心の鈍い弟子たちの心を開き、悟らせようと様々な不思議な業を見せ、種々の教えをされたのはそのような主イエスさまの緊張のなせる業であったと言えましょう。そしてついには「心を騒がせるな、おびえるな。私があなた方についている。平安を与えるから。」とまで言われたのです。ですから何があっても安心していてよいのです。
「主に従い行くはいかに幸いなるかな、いかに心強きことか、いかに喜ばしいことか」安心して声高らかに歌いつつ日々を生きていってよいのです。
復活節第六主日 2016年5月8日
ヨハネによる福音書 第17章20−26節
主は昇天されました。私たちは召天を望みます。
父なる神さまのご計画に従って地上での生活を十字架上で終えられた主イエスさまは、復活の後、お弟子たちとなお、40日の間過されてから父なる神さまのみ許へ行かれました。それは全く異なる次元へ移られたということで、教会は「天に昇られた=昇天された」と表現いたします。
ご復活のみ姿に接し喜びに溢れたのも束の間。お弟子たちはまたまた心細さに襲われることとなりました。しかし、このことは主イエスさまには織り込み済みのことでした。それはかねてから語られていたことなのですがお弟子たちは意識しておりませんでした。
主イエスさまはお弟子たちのために「ところ」を用意しに行くと語られ、再び来られるその時まで父なる神さまに願って「助け主、弁護者、聖霊」を送って頂く、と約束してくださったのです。お弟子たちを孤児のように放り出すことはしないと約束されたのです。
主イエスさまのご昇天はわたしたちに新しい望みを与えて下さるものです。この約束の下、わたしたちも招き入れて頂くことを待ち望み、歩むのです。