礼拝時に読まれる福音書の補足を 「今さらですが‥・」シリーズ として宇田司祭が週報に書かれていますので、こちらに転記しておきます。
 右記福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。

本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
著作権所有者は下記の通りです。
 (c)共同訳聖書実行委員会
  Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会
  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

大斎節第一主日 2015年2月22日
マルコによる福音書 第1章9−13節
大斎藤・たいさいせつ・レント
 教会は主のご受難と復活の時を格別大切に守ってきました。この姿勢は悔い改めと断食の期間として過ごすようになりました。初めのうちこの期節、大斎節は(レントとも言われ、春を意味しますが)主の復活日に洗礼を受ける人や罪をゆるされて教会の交わりに回復される予定の人々によって守られてきました。  その後、教会はすべての信徒が信仰と敬虔へと導かれるために有用なことととらえ、奨励してきました。また、祈りと断食の生活を形としてあらわすために大斎克己献金を奉げる習慣も生まれました。大斎を失うものは一年を失うこととなる、とは古くから教えられてきたことです。主日を除く40日が大斎飾です。  主のご復活の日である日曜日を除く40日を大斎節とし、キリストへの忠誠を尽くす日々として過ごし、本当に喜ばしい春、ご復活日を迎えることが出来ますよう、ご一緒に励んで参りましよう。  あなたもこの大斎節を人々に伝える者となることを神さまは強く望んでおられます。それにしても、なんと誘惑が多いこと!誘惑する者が何とたくさんいることで しよう!

大斎節第二主日 2015年3月1日
マルコによる福音書 第8章31−38節
聖ヤコブさんの名前の由来?
 前にもふれたことがあったでしょうか?ある敬虔な方が「聖ヤコブさんは天国への階段を脆いて往復された方だったので膝に八つのこぶができたのです。」と伺った時には私も返す言葉がありませんでした。「ヤコブさんは聖人」「聖人を大切に思う姿勢」なんだか抗いがたいものを感じ、口を閉ざさざるを得ませんでした。相手がお年寄りでしたし。聖ヤコブさんは天国へ通じる階段を行き来された、と言う伝説?のある方であることは確かなのですが‥。篤い信仰と身近ではあるが関係のない知識とが結合してしまった例なのでしょうか。神道と仏教とが無理やり結合されたようなものでしょうネ。
 聖ペテロは主イエスさまに対し余りにも強い心情を持っていたのでしょう。主イエスさまに対するこの世の人の評判を第一に考えてしまったのです。「大好きな先生の評判が落ちてほしくない。」と思った結果、主イエスさまの本来の使命を否定することになることを考えられなかったのです。「そんなことを言ってはなりません」とね。
 教会のこの世的な評価を気にするあまり、この世に迎合してしまったのでは結局は教会を否定したり、存在を曖昧なものにしてしまう結果に陥る危険のあることに注意深くあらねばなりません。孤高を守ることに汲々として独善に陥ってしまってはなりませんが、世俗に流されることがあってはならないでしょう。ああ、塩梅が難しいですね。塩梅が。








大斎節第三主日 2015年3月8日
ヨハネによる福音書 第2章13−22節
過越し祭?
 復活節には祭壇や聖卓の上に置くローソクや燭火とは別にもう一つ設置する習慣があります。そのローソクをパスカルキャンドルと呼びます。これは「パスカの口−ソク」と言う意味で、ギリシャ語のパスカつまり「過越し」に由来しています。
 当初、家畜の初子を奉げる春の祭りでしたが、後に種いれぬパンの祭りが結びつき、さらにモーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出する際にイスラエルを虐げるファラオの長子を初めエジプトのすべての長子を撃った時、イスラエルの家をのみ神の手が通 り過ぎ、撃たれなかった故事・歴史的な意義が加えられたと言うことです。
 この過越しの祭りにイスラエルの国中の人々が集まるその時に主イエスさまは十字架につけられ、三日目に蘇られたのです。そこで、主イエスさまの復活の出来事を宣言する印としてローソクが灯されるようになり、パスカルキャンドルと呼ばれるようになりました。時代が下るにつれ、パスカ・過越しと主イエスの復活とは強固に結び付けて考えられるようになったと言うことです。
 今年の過越しと主の復活とは4月5日に祝われることになっています。
全員集合!ですよ。









大斎節第四主日 2015年3月15日
ヨハネによる福音書 第6章4−15節
あり得ない? ある!
 昔から薬のネイミングは笑えるものが多くありましたが、最近はこの傾向が薬以外の商品にも及んでいます。常識ではありえないことがこの商品を使うと可能となる、ということで商品名を決めていることもあります。
 「常識」は私たちを導きもすればまた逆に真実から目を背けさせることもあります。お弟子たちもある意味、常識の人たちでした。「こんな野っぱらの真ん中で」「こんな僅かな食べ物で」「何千人もの人を養うことなどできっこない」、と常識は結論付けます。誰もがそう思うことでしょう。
 ところが、弟子たちはその常識を根底からひっくり返される様を目にしたのです。野っぱらの真ん中で、僅かな食べ物で、何千人もの人々が養われたのです。人々は満たされたのです。そして残った食べ物を集めたところ、12の籠に溢れるばかりでした。イスラエルの12部族が満たされたのです。人は食べ物なしに生きることはできません。ですが、パンのみにて満たされるのではありません。本当の充足は生きることの根っこの部分で確信を持つことが出来る時なのです。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きることの意味を見出した時、人は生きる意味を実感することが出来ます。
 神さまはいつもわたしたちに語りかけておられます。 「わたしに繋がって、しっかり踏ん張り生きなさい」と。

















大斎節第四主日 2015年3月22日
ヨハネによる福音書 第12章20−33節
教えてあげたいおいしお店
 福音とは「良い知らせ」と言う意味なのです。町を歩いていて思いがけなくおいしいお店に出会ったとき、お友達にそのお店を紹介したいと思う、その状態こそ、福音に出会ったとき、主イエスさまに出会ったときのわたしたのの状態を表しています。
 「あのお店、おいしいわよ」とみんなに教えざるを得ない状態、それこそが「福音に出会った人」の心の状態なのです。
 エウガングリオンが福音の語源です。絶体絶命の敗戦を覚悟していた人々に逆転勝利の知らせを、42.195キロのマラトンの道を走り続けて届けた兵士のように、主イエスに出会った私たちが身近な人々に「伝えずにいられない」それこそ、福音に出会ったわたしたちの姿なのです。
  フィリポとアンデレは聖書の中では名前が出て来るだけ、くらいの目立だないお弟子です。それほど才能が目・立つ弟子たちではありませんでした。でも、人々を主イエスさまに紹介する、と言う素晴らしい行いを致しました。
 わたしたちは主イエスに出会ったあの感激、福音に触れたあの時の喜びを他の人々に伝えるべく、召されているのです。


















復活前主日 2015年3月29日
マルコによる福音書 第15章1−39節
あん時、あんだどこさいだのさ?

 むかし、「ワーユーゼアー?」という歌を歌う機会がありました。それは昔風に言えば黒人霊歌のジャンルの歌でした。その時は、意味が分からず、ハーモニーを素敵だな、と思っていただけでした。

 後になって、これは主イエスさまのご受難と深い関連のある歌だと知りました。自らの上着や、郊外に行ってとってきた木々の若枝を敷いて主イエスさまのエルサレム入城を歓迎した人々は数日のうちに、まさに手のひらを返すようにして、「十字架に付けよ!」と叫ぶのでした。

 復活の主イエスさまを知った時、人々は後悔の念に襲われたことでしょう。「十字架につけよ!」と叫ぶ群衆の中にあって、私はどうだったのだろうか?「お前はどこにいたのか?」と自問自答していたのです。

 わたしたちはいつも、日々の生活の中で、「お前はどこにいるのか?」と主イエスさまに間いかけられているのです。逃げたらアカン!なめたらアカン!しっかり自分の人生に向きあうべき、なのです。でも、「べき!」で生きることはいつもきついことですな

主イエスさま、助けて下さい!と析るだけです。



















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復活日 2015年4月5日
マルコによる福音書 第16章1−8節
リフレッシュ?リニューアル?
 リユース?リフォーム?
  いえ、主の復活はどれとも違います。

 主イエスさまのご復活おめでとうございます。金曜日に十字架につけられた主イエスさまはアリマタヤのヨセフの墓に葬られました。しかし、三日目にその墓は空になっており、主イエスさまは新しい命に甦られたことを弟子たちは知らされました。
 最近住宅のリフォームやら資源のリサイクルやら再利用、改装開店やら、目先を変えて新しいものとする行為が頻繁に行なわれています。
 主イエスさまは「三日目に死人のうちから」新しい命へと移られました。そういう意味では「リ〇○」と言ったこととは決定的に異なります。「復活」と言う言葉の原意は「立ち上がらせる」と言うものです。主イエスさまは完璧な死人の中から新しい命に立ち上がらせられたのです。そして神さまはその新しい命へわたしたちを招き入れて下さる、それが復活日になされる神さまの宣言なのです。この宣言を聞いてわたしたちは「ハレルヤ万歳!」と叫ぶのです。 br />









復活節第二主日 2015年4月12日
ヨハネによる福音書 第20章19−31節
リフレッシュ?リニューアル?
 肯定から?それとも否定から?
     ンー、そこのところが難しい。

 最近、科学的な発見を巡って論議があり、結果としてその発見は否定されてしまいました。
 真理に迫ろうとする時、「肯定する条件を否定する」と言う迫り方と「否定する条件を否定する」と言う迫り方があるように思います。

 主イエスさまのご復活の知らせを聞いた弟子たちは戸惑いました。誰だってそうでしょう。その出来事を前にして、み弟子たちの心も揺らいでおりました。「そんなことあるわけないでしょう!」聖トマスは冷静に語り始めます。肯定の否定でした。

 そのとき、主イエスさまは復活のみ姿を弟子たちに現されました。「お前の疑問はもっともである。」だが、「復活した私はここにおるよ。」と。

 聖トマスはまことに現代の科学者のように肯定の否定から復活の出来事にむかいます。主イエスさまはそのような聖トマスを打ち砕きます。「ほら、わたしの手、足、脇腹の傷を確かめてごらん。」と。

 人の知恵は確かに素晴らしいものがあります。けれども、それが最上、最善のものとは限らないのです。それを忘れると人類は傲慢になり、本当に見なけれぱならないものを見るチャンスを失うのです。実に、復活の主イエスさまはわたしたちの目を真理に向かって開いて下さいます。





















復活節第三主日 2015年4月19日
ルカによる福音書 第24章36−48節
あなたがたに平和があるように!

 復活の主イエスさまは弟子たちが隠れ潜むようにして集まっている、その真ん中に立ち、「あなた方に平和があるように!」と挨拶されたと言うのです。「あなた方に平和があるように!」と言う挨拶はイスラエルの挨拶の常套句で、「こんにちは!」と言うようにも「こんばんは!」とも用いられる言葉でした。

 考えてみると、わたしたち人間が歴史の中で何時の時代でも等しく求めたのは「平和」「平安」と言うことではなかったでしょうか。そのようなわたしたち人間の現実に対して「あなた方に平和があるように!」「あなた方のこの日に平安があるように!」と復活の主イエスさまが語りかけておられます。

 そうなのです。復活の主イエスさまをお迎えする時、わたしたちの人生に主イエスさまの「平和」「平安」がもたらされるのです。人生に何があろうと、主イエスさまの祝福がわたしたちに向けられているから安心な、のです。ご復活の主イエスさま万歳!(ハレルヤ!)とご一緒に歌いましょう。















復活節第四主日 2015年4月26日
ヨハネによる福音書 第10章11−16節
何だってプロになるのは大変だ!

 主イエスさまはご自身を「善き羊飼い」と言っておられます。ちゃんとした羊飼いであれば羊を見捨てて逃げることはない。「その点、わたしは善き羊飼いであるから安心だ。」と言われるのです。

 どの仕事であれ、中途半端にしていたのでは一人前の人間とは認めてもらえません。そこに命を懸けるのでなければ一人前の羊飼いとは言えない、と言う訳です。 「一所懸命」。自分の領地に命懸けになってこそ、そこを守ることが出来るのであって、ちゃらんぽらんでは他人に奪われてしまうのです。

 主イエスさまはご自身を命懸けになって羊を守る羊飼いに、そしてわたしたちをそのような羊飼いに守られる羊に例えておられます。「わたしについて来れば大丈夫!」と主イエスさまは言っておられるのです。プロの羊飼いがわたしたちにはついていて下さるのです。

良かったですね。主イエスさまがついていて下さっているなんて。



復活節第五主日 2015年5月3日
ヨハネによる福音書 第14章15−21節
共鳴していますか?

 ご復活の主をお祝いする期節が続いています。喜び喜ぶわたしたちに主イエスさまは語りかけておられます。その喜びを身をもって示しなさい、と。それは互いに愛し合うと言うこと、その大前提となっている主イエスさまを愛することである、そして主イエスさまを愛する、と言うことは主イエスさまと同じように生きると言うことに外なりません。

 楽器を演奏する時には調子を整えなければ綺麗な合奏はできません。調子を整え終えるならば、一方の楽器の音を出すと、もう一方の楽器も振るえ、鳴り出します。共振、共鳴と言う現象が起こります。調子を合わせる、同調する時に共鳴、共振が起こるのです。

 表面的な、おざなりな超幸せでは共振も共鳴も起こりません。主イエスさまがわたしたちに求めておられるのは主イエスさまに同調し、共振・共鳴を起こす生き方であるのです。「わたしを愛するなら‥・‥」と言われていることとは、こういうことを意味しておられるのです。

 わたしたちは果たして、日々の生活の中で主イエスさまと共振・共鳴しているでしょうか。その響きは大音響である必要はありません。かすかなものであっても良いのです。振れていること、鳴っているいることが大切なのです。







復活節第六主日 2015年5月10日
ヨハネによる福音書 第15章9−17節
しもべ?それともともか?

 ご復活の主イエスさまは弟子たちと共に過ごされた後に四旬節の日に天に昇られました。父なる神さまの右の座に着かれたのです。弟子だちと同じレベルに居られた主イエスさまは父なる神さまの領域に移られたのです。その日の為に主イエスさまは種々、弟子たちを教え、訓練されました。

 教えを与え、訓練を施したからには弟子たちは主イエスさまにとってもはや、しもべではなく友と呼ぶに相応しいものとなった、と言われるのです。「言われたからっする」のではなく、「同じ心、響き合い」から主イエスさまと共に生きる者へと変えられている、と言われるのです。そこには主イエスさまと共に生きる、と言う喜びが伴うのです。

 わたしたちが主イエスさまと生きる喜びに満たされ生きているのか、それとも「させられて」生きているのか、そこには大きな違いがあるのです。「しもべ」と[とも]との違い程の。

 わたしたちは主イエスさまの友として喜びをもって生きるべく、召されているのです。











復活節 第7主日(昇天後主日) 2015年5月17日
ヨハネによる福音書 第17章11−19節
父の家に昇り行きて……

 主イエスさまは十字架の上で死に、蘇り、天に昇られました。主イエスさまは父なる神さまの御許に行かれた、と聖書は記します。父なる神さまと同じレベルに行かれてと言う時まさか、下ると言う表現にはならないでしょうね。

 わたしたち人間とは異なるところに行かれた、そこで「昇天された」と教会は表現いたします。これは日本語の問題なのでしょうが、「召天」と言う言葉があります。実は主イエスさまは父なる神さまに「召され」天に昇られたのですが、「召天」とは言いません。主イエスさまは「昇天」であり、わたしたち人間は神さまの御慈悲によって「召天」の恵みに与ることが出来るのです。

 わたしたちは、とち狂ったとしても、自らを「昇天」するようなものと思いあかってはいけません。わたしたちは神さまの慈しみによって「天に招き入れて頂く」、「召天を請い願う」のみの身であることを知るべきでしょう。

 請い願う道がわたしたちには備えられております。何よりも、主イエスさまがわたしたちの為にその道を開いて下さったのですから、嬉しいじやないですか。ご一緒の天に召されたいものですね。











聖霊降臨日 2015年5月24日
ヨハネによる福音書 第14章8−17節
見えたら、神さまではない!

 「神は頼るべからず、敬うべし」とは時代小説のある大家?が作品の中で繰り返し、作中人物に語らせている言葉です。神さまに自分の欲求・願望の成就を求め、神さまの具体的な姿形を求めてしまう人間のある意味での弱さを戒めているように思います。

 主イエスさまはわたしたちに祈り求める神さまの姿を形あるものに求めることが無いように、聖霊なる神さまのありようを教えて居られるように思います。

 どうしてよいか分からず、ただただ不安に駆られて集まっている弟子たちに神さまは聖霊を遣わし励ましてくださいました。神さまは聖霊降臨の出来事によって形あるものを頼ることなく、神さまのみ守りを実感できる道をわたしたちの為に開いて下さったのです。見えるものはそのものでしかありませんが見えずとも、神さまはわたしたちに関心を寄せ、導いていて下さることを聖霊降臨によって示されたのです。まさに、ここから教会の歴史は始まったのです。

 見えたらそれは神さまではありません。見えないから普遍の、どこにでも居られる神さまで在られるのです。














三位一体主日 2015年5月31日
ヨハネによる福音書 第3章1−16節
「三位一体」これ、どう読みますか?

 日本語や中国語は表意文字を用いますが、世界では表音文字を用いる国・地域が少なくありません。同じ音が別の意味を示す場合が少なくはないそうです。よくよく確認をして違いが分かり、大笑いすることもあるようです。

 一方、表意文字を用いる際には誤読が生じ、聴いている人が理解に苦しむこともあるようです。地名、人命に関してはよくよく慎重にかからないとまったく別の人、別の土地と間違えてしまうことがあります。もっとも、誤読が大手を振ってまかり通るようになることもないわけではありませんがね。

 冒頭に掲げた「三位」は優劣を表す際は「さんい」が正解ですが、位階を表す際は「さんみ」が正解となります。そしてキリスト教の用語としては「さんい」が正解となります。従って本日の主日は「さんいいったい」主日と読むことになります。
 「父なる神、子なる神、聖霊なる神」は三神ではなく、一神である、これがキリスト教の教えです。父なる神は創造において働かれ、子なる神はキリストとして世に降る際に示され、キリストの復活・昇天の後は聖霊なる神としてわたしたちに臨まれ、導かれ、恵みをお与えくださるのです。それ故に現代は「聖霊降臨後」の時代と言うことになるのです。
























聖霊降臨後第二主日(特定5) 2015年6月7日
マルコによる福音書 第3章20−35節
人を見てものを言う?
   人を見て真偽を判断する?

 ある司祭は昔、大変な暴れん坊であったそうです。人事異動で故郷の教会に赴任したところ、「あいつが司祭になる教会には行かん」と何人かの信徒が教 会を離れたのだそうです。

 主イエスさまが公生涯に入られ、み言葉を語られた時、生い立ちを知る人々はビックリ仰天、「あいつは気が狂った」「悪い霊に冒されている」と思っ たのです。「親戚のお前たちがしっかりあいつをコントロールしなさい」「取り押さえろ!」そこで今日の福音書の状況が生まれたのです。

 相手を理解して分かり易く言う?、失礼の無いように話す?それはある意味で必要なことでしょう。しかし、「話す人がどういう人であるか」、で話されることの内容、意味、軽重を判断するとすれば、わたしたちは真理を見失うことでしょう。実際、わたしたちが日常的に冒している過ちであるかもしれませんが…。

 わたしたちはもしかしたら、日常の中で神さまから語られているみ言葉を受け止め損ねているかもしれない、と言う謙虚さが必用なのでしょうね。

注)改めて「公生涯」の意味:
公生涯(こうしょうがい)とは、イエス・キリストの公の生涯という意味で用いられる。福音書の記述によるとイエス・キリストが30歳で荒野でサタンの誘惑に勝利し、ユダヤで公の活動を始めたことから始まり、十字架までの約三年半の期間を指す。(ウィキペディアから)
ルカによる福音書第3章23節「イエスが宣教を始められたときはおよそ三十歳であった」)














聖霊降臨後第三主日(特定6) 2015年6月14日
マルコによる福音書 第4章26−34節
受信装置を手入れしよう!

 日本では「けし粒」が一般的ですが、イスラエルでは小さいものを表す比喩として「からし種」が用いられたそうです。極々小さな種で蒔かれたからしはいつの間にか誰も分からないうちに成長し鳥が巣を作る大きな枝をはるようになる、と言います。

 わたしたちはいつ、どのようにした、或いはなぜ、そのようになると言ったことを何も知らないけれども、いつも神さまに恵まれ、豊かな実りを頂いている、と言うことを主イエスさまは教えられました。

 主イエスさまは人々の聞く力に応じて教えられた、とあります。通り一遍の話をされるのではなく、わたしたちが理解できる、受け止めることが出来るように備えていて下さるのです。

 テレビの放送にはたくさんのチャンネルがあるそうです。もし、わたしたちが聴こう、見ようとチャンネルを合せるならば、聴いたり見たりせることが出来るのです。

 神さまにチャンネルを合わせること、心の回路を神様に向けて開いているならば、神さまの声、神さまの恵みがいかに豊かであるかがわかることでしょう。わたしたちの受信装置を手入れし、しっかり神さまの声が聞こえるよう備えましょう。




聖霊降臨後第四主日(特定7) 2015年6月21日
マルコによる福音書 第4章35−41節
「静まれ!うろたえるな!」

 鏡の面のような穏やかな湖が突如、波荒れ狂う凶暴な様相を呈する。周囲を急峻な崖に囲まれているガリラヤ湖ではじばしば起こる現象であると言います。しかし、粗末な小舟で岸から遠く離れた状況でこんな事態に襲われた人の恐怖はとてつもないものであったことでしょう。うろたえる弟子たちを見て主イエスさまは「静まれ!」と湖を叱りつけた、と聖書は記します。

 何事もなく平穏日々を過ごしているときに突然襲い来る人生の危機。うろたえない人があるでしょうか。沈むばかりの状況に恐怖に駆られる。「静まれ!」「うろたえるな!」「わたしが付いているではないか!」湖に対する「黙れ!静まれ」との主イェスさまの風を叱り、湖に言われたお言葉は突然の嵐にうろたえる弟子たちに対する叱責、励ましであると同時にわたしたちが人生に行き悩み、怯える時の励ましでもあるのです。

 「大丈夫!安心して主イエスさまと共に歩みなさい!」と聖書は教えています。




聖霊降臨後第五主日(特定8) 2015年6月28日
マルコによる福音書 第5章22−43節
わたしは言う、タリタ、クム!

 ユダヤ教の会堂(犠牲を捧げて礼拝する神殿ではなく、安息日ごとに集まり律法の書を朗読し解説を聞く集会所)の管理人兼世話役のヤイロは瀕死の娘を癒してください、と主イエスさまに縋り付きました。「既に死亡した」と言う知らせを無視して娘の下に赴かれた主イエスさまは娘の手を取り、「タリタ、クム」といわれました。すると娘は起き上がって歩き出した、と記されています

 最後の望みとして主イエスさまにすがるヤイロ。手を取り、「少女よ、起きなさい」と語りかけられる主イエスさま。この時奇跡が起こったのです。

 絶対絶命のピンチに臨んだ人が「頼るべきはこの方のみ」と縋り付かれた時、主イエスさまはすげなくその手を振り払うようなお方ではありません。

 「娘よ、起きなさい。」とのみ言葉は悲しみ、苦しみの淵から立ち上がらせてあげよう、さあ、起きなさい、との呼びかけでもあるのです。

 「娘よ」との呼びかけは、実は絶望釣になっている人すべてに対してなされている呼びかけなのです。勿論、その中には「あなた」も「わたし」も含 まれているのです。



































聖霊降臨後第六主日(特定9) 2015年7月5日
マルコによる福音書 第6章1−6節
寝小便たれの洟垂れ小僧だった?

 故郷に帰り、目にする人の姿は懐かしい。けれども、よく見るとその人はその人ではなく、息子娘であることに気づかされ、苦笑する。四十年、五十年を経てその人が同じ姿で立っていることのあろうはずがない。

 その逆もある。幼い姿でしか思い浮かべない人が思いがけない壮年の姿で立っていることがある。まさに浦島太郎の心境そのものである。フフフ。

 シナゴーグで安息日の集会で最後の聖書朗読者として指名を受け、その箇所の解説・説教をする主の姿を目の当たりにして人々は仰天します。

 あの寝小便たれ、洟垂れ小僧が何と偉そうに語ることか、と。しかも、今迄聞いたこともないような革新的・かつ核心を突く話をされるのですから。でも。彼らは受け入れられませんでした。余りにも主イエスさまが身近であったために。

 「老いては子に従え」と言いますが、自分が老いているとは認めたくないし、語る人の出自を知っていればとても、その語る真実を受け止め得無かったのです。あのイスラエルの人々も。

 万物を造られた神さまはその万物を用いてみ心を示されようとしておられることを忘れてはなりません。それが自分の想定を超えていたとしても。


聖霊降臨後第七主日(特定10) 2015年7月12日
マルコによる福音書 第6章7−13節
十二人を二人づつ組みにして遣わされた

 弟子たちを宣教の旅に送り出す時に、主イエスさまは二人を一組として遣わされた、とあります。

 信仰生活を送る上で瞑想・黙想は不可欠であると言われます。方法はともかく、一人静かに自らの信仰の在りように想いを致すことはとても大切なことです。この時、独善に陥らないためには「深さ」と共に「広さ」を求める作業が必要です。

 この作業を一人で行うことは至難の業であると思います。そこで弟子たちを派遣するに際して、主イエスさまはそれぞれにパートナーを決めて下さったのです。ところが、これは洗礼同様、主イエスさまの発明ではありませんでした。実はユダヤの伝統的な教育方法であったのです。二人一組になった生徒が互いに啓発しあって高め合い、深め合うと言う方法だったのです。

 わたしたちが信仰生活を送る際、一人静かに神さまと向き合うと言うことと、自分以外の人と共に刺激し合い、高め二合い、深め合い、広げあうと言う共 同作業が欠かせないことを主イエスさまは弟子たちに実感させられたのです。

 一週間社会の中でクリスチャンとして生き、主日に教会で礼拝を共にすることを通して信仰生活が充実させられるのです。






聖霊降臨後第八主日(特定11) 2015年7月19日
マルコによる福音書 第6章30−44節
あなた方が……与えなさい。

 しつこいほど、どこまでもついて来る群衆。それは夕方になっても一向に減ることはありませんでした。弟子たちは辟易しながら主イエスさまに訴え ました。「夕方になりますし、お腹を減らして弱っているものすら居りますから、食べ物を探しに行くよう勧め、解散させてください。」と。

 「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい。」これが主イエスさまの答えでした。「彼らの身の上を心配するのなら、自分たちで食べ物を与えてこそ、本当に案ずることではないか」と言われたのです。

 「莫大な費用が掛かりますし、何千人もの人々を養うことなどわたしたちにはとても無理です。」弟子たちは主イエスさまのお言葉に泣きついてお答えしたのです。その時、主イエスさまは群衆を座らせ、手元にある僅かな、粗末な食べ物を人々に分け与え始められました。すると、人々は満腹したばかりか残された物を集めたところ、12の籠に溢れるほどであった、とマルコ伝は記しています。

 同情は言葉だけで済ませるのではない、と言うことなのでしょうか。弟子たちの祈りが足りないと言うことなのでしょうか。主イエスさまの神の子としてのお力が偉大であることを示しているのでしょうか。それとも……。じっくり、語りかけられていることに心の耳を研ぎ澄ませましょう。






















聖霊降臨後第九主日(特定12) 2015年7月26日
マルコによる福音書 第6章45−52節
心が鈍くなっていたからである。

 梅雨明けが宣言されたのですが逆戻りしたかのようなお天気が続きました。今年の梅雨は格別雑草をたくさんもたらしたように思います。朝境内地を歩くと昨日までは何も生えていなかったはずなのに、立派な?雑草が生えていて驚かされます。

 突然湧いて出たかのように思えるのですが種のないところから草が湧いて出る訳がありません。理由があったのです。ところがわたしたちは減少が現れて初めて気が付き、驚くのです。

 向かい風が吹き一向に漕ぎ出し出来ない時、湖の上を歩いて来られる主イエスさまを目にした弟子たちは己が目を疑います。そして「幽霊を見ている」と騒いでしまうのです。

 弟子たちはそれまでに主イエスさまが示された「不思議な業」を見ていたのですが、その不思議なことにのみ驚き、なぜ、そのような不思議な業を可能にされるのか、そのような力の源泉がどこにあるのか、と言うところまで目を向けることが出来なかったのです。「心が鈍くなって居たからである」とマルコ伝は言い切ります。

 鈍くなっていたのは疲れていたからなのか、ほかのさまざまな事柄に心を奪われていたからなのか、そもそも心が研ぎ澄まされていなかったのかはわかりませんが……。活ける神の子キリストであることを忘れていなければ失敗しなかったのに……。






聖霊降臨後第十主日(特定13) 2015年8月2日
ヨハネによる福音書 第6章24−35節
ポケットの中には……
そんな不思議なポケットが欲しい……

 カインは弟アペルの捧げものが主に受け容れられ自分の捧げものには目を向けて頂けなかったことで感情を爆発させ弟を手に懸けてしまいました。そのことを主に問いただされると白を切ってしまいます。そのためカインとその末裔は一生額に汗してパンを得るために働かなければならなかったと創世記は記します。

 わたしたちカインの末裔にとってパンを手にするために働くことは生きるための必須条件となっています。そして「飢え」を怖れ、備えることが人類の歴史である、と言う人もあるほどです。

 体を養い、命を支えるパンが十分に得られることは誰もが望むことでしょう。ところが、「もっと、もっと」と追い求め始めたとき、より多く確保することが目的になってしまい、何のために働き、何のために備えるのかと言う視点が失われてしまいました。子供たちが「ポケットをたたくとビスケットが一つ、も一つ太叩くとビスケットは二つ……そんな不思議なポケットが欲しい♪」と無邪気に歌うならだれもが微笑むことでしょう。しかし、聖書に聴くわたしたちはそこから戒めのシグナルを見とる必要がありそうですね。




















聖霊降臨後第13主日(特定16) 2015年8月23日
ヨハネによる福音書 第6章60−69節
でも、二股交際?はご法度ですよ。

 正論ではあるけれども、あまりにも過激なのでつ いて行けません。と言う言葉を聞くことがありませ んか?自分の立場が危うくなるのではないか、と心 配になるためでしょうか。もっと早く声を上げていたならば…、と言う例が歴史の中でも見出せると言 われますが…。

 主イエスさまは敢然として声を上げられました。まさに身の危険をも顧みることなく。神の国に入る ため、永遠の生命に与るために必要不可欠なことは「主イエスさまによることJである、と言われたのです。「こんなひどい言葉を聞いてはいられないJ とはイスラエルの社会から除名される、排除されるような主張にはついて行けない、と言う立場表明だったのです。

 神の国とこの世とに二股交際はできないよ、と主イエスさまは言われます。この主イエスさまのお言葉は私たちに対するf憐れみ」を含んでいます。心弱く、毅然として旗印を明確にできないでいるわたしたちの現実をご存じだからです。情けないわたしたちですが、それでもぼろぼろになりながらも、チョット遅れがちにでも、み後についていこうとするならば、主イエスさまは少し歩みを緩め、私たちに目を向けてくださることでしょう。













聖霊降臨後第14主日(特定17) 2015年8月30日
ヨハネによる福音書 第7章1−15節
人間の心から悪い思いが出てくる

 「帰宅したら手洗い、うがいをしなさいj子供ばかりかインフルエンザなどの流行シーズンには大人に対して も頻繁に言われることです。家を出るとどこでどんな菌やウイルスに触れるか汾からないと言う訳です。

 イスラエルではそれは衛生問題に止まらず、信仰上の禁止事項でもあったのです。ガサツな若いお弟子たちが手も洗わずに食事の席に着く姿を見て、指導者たる主イエスさまに非難が向けられたのです。「汚れた手 のまま食事することを許すなんて・・・jと言う訳です。

 家の入口に大きな亀を置き、「我が家は浄めの準備を整えていますよ」と世間に示すことを常としてしていたユダヤの人々。そこに形骸化を見た主イエスさま。手を洗 うことで神様のみ前に自らを浄いと言って憚らないユダヤの人々に対し主イエスさまは言われます。本当に大切にしなければならないのは手を洗って満足するようなことなのではなく、ともすると人の心の中から生まれてくる悪い思いを浄めることではないか、と。わたしたちの心からひょこひょこと顔を覗かせてしまう悪念を取り去って浄めて下さるよう、神さまにお願いしましょう。




















聖霊降臨後第15主日(特定18) 2015年9月6日
マルコによる福音書 第7章31−7節
「エファタ、(開けよ)!」と言われた。

  猛暑の夏、あまりの暑さに水たまりができなかったり水たまりの水温が高すぎて蚊の卵もふ化出来なかったようですが涼しくなった途端、蚊の襲来に悩まされています。外から帰ったとき、油断をして いると後ろからついて来た蚊が襲ってきます。素早く戸を閉めないと大変。悪いものが入れないために は開きっぱなしは何であれ、気を付けなければ,???。入り口を状況に応じて閉じることは必要なことですが、情報の入ロである目や耳を塞ぎっばなしでは何も見えませんし、聞こえません。一方、困ったことには都合の悪い?事柄には目や耳を閉じてしま うという傾向も私たちにはあります。危険を避ける余りに目を閉じ耳を塞ぎ、ロを閉じたままでいたのでは何のために耳や目やロが何のためにあるのか分からなくなってしまいます。

 自分は目や耳やロをしっかり開き、健全に用いて いる、と自負し事故を顧みない人々に対して「エフ ァタ!」と主イエスさまは言われるのです。体の一部である目や耳やロがみなと同じように機能しないことは当事者としては本当につらいことです。そして、真実に対して、神さまに対して見ず、聞かず、語らないロであることに無感覚であることはさらに、哀しいことであると主イエスさまは教えておられるのです。さあ、自己点検をしなければ…。








聖霊降臨後第16主日(特定19) 2015年9月13日
マルコによる福音書 第8章27−38節
ああ、頭がよく、物わかりの良い人・・・

 心配性だ、と言われる人がいます。あれやこれやこれから起こるかもしれないことを想定して心に重荷を負ってしまいます。このような方々は実に頭が良ぐそのためにいろいろなことを想定できるために頭がそれほど回らずに想像力が働かない人に比べると、とてつもなく重荷を負ってしまうようです。

 情報が大量に、瞬時に受け止め得る私たちは昔の人々と比べると格段に判断材料を容易に手にすることができます。現代人はある意味では昔の人々と比べると頭が良ぐ幅広い判断力を持っているかのように錯 覚し、ふるまってしまうのかもしれません。

 「あなたはメシアです。と答えた聖ぺテロはその舌の根の乾かないうちに「神のことを思わず、人間のことを思っている」と主イエスさまからお叱りを受けてしまいま した。一度は見事に信仰告白をしたにもかかわらず、この世の知恵に妨げられたのです。

 頭がよく?いろいろ気が回り、斟酌する結果、真実から遠くなってしまうことは私たちの間でも往々にして起こり得ることでありましょう。ことに心優しい存在、クリスチャンでありたいと願う人々ほど陥りやすい罠と言えな いでしょうか。あ一あ、物わかりの良い人を目指すのも考え物、ということなのでしょうかネー。




















聖霊降臨後第18主日(特定21) 2015年9月27日
マルコによる福音書 第9章38−48節
無免許でもよろしいのですか?

 勝手に主イエスさまのお名前を使っている人々を戒めて止めさせたお弟子たち。報告を受けた主イエスさ まは「止めさせてはならない。」と言われた、とあります。お弟子たちにしてみれば「自分たちと行動を共にしているわけでもないのに。」と意外に思ったのでしよう。

 自分たちは仕事も家族もそのまま残して主イエスさまに従っているのに対して彼らは全く行動を別にしている者、勝手に主イエスのみ名を言わば、無許可で用いている怪しからん者ども、と言う訳です。

 私たちが気を付けなければならないことは、むしろ自分は主イエスさまの側に居ると思っていながら結果的に主イエスさまに反対している場合がある、と言うことなのです。私たちが無意識のうちに人々の躓きになっているとしたら、悔やんでも侮やみきれないことです。

 主イエスさまに誠実に生きているつもりで反キリストの道を歩むことがないように、と祈るばかりです。無免許で主イエスさまに従うことを責めるよりも、免許を受けたつもり?でいながら主イエスさまからそれてしまうことのないようにしっかり主イエスさまを見つめて生きて参りたいものです。












聖霊降臨後第19主日(特定22) 2015年10月4日
マルコによる福音書 第10章2−9節
あなたたちの心が頑固なので…

 3行と半行で離婚状を書くので『みくだりはん」と言う表現が生まれたそうですが、婚姻関係を打ち切る、と言う行為はそう簡単なことではないという思いは誰もが共感することでしよう。それでもなお、そうせざるを得ない状況がある、だからどちらからかは別として「みくだりはん』を交わす事態に至るのでしよう。そこでモーセはその手続きを定め、民に与えたと言うのです。

 実は結婚の問題ばかりではなく、私たちは神さまに対して常に「譲歩』を勝ち取った?ようです。神 さまはモーセを通して民に十戒を与えられましたが、人々はモーセにさまざま申し立てをし、譲歩を引き出し、それを「慣わしJとして定着させていったようです。

 このことは十戒を巡る例外規定を見るまでもないことです。しかも今なお、私たちは次々と新しい 例外規定、譲歩の要求を神さまに突き付けているようです。もちろんそれは特定の人に限られることで はなく、多くの人に共通していることだと思います。

 本日の福音書は結婚を巡る問答の形をとっていますが、結婚の問題にのみ注目するのではなく、私 たちと神さまとの関係全般について考えを及ぼすべきであると思うのはそれこそ思い込みでしようか。当たらずとも遠からずではありませんか。





聖霊降臨後第20主日(特定23) 2015年10月11日
マルコによる福音書 第10章17−27節
ポクには夢がある、希望がある…
しかし、欠けているものがある。

イスラエルの人であればモーセの十戒は常識でした。子供の頃からまさに叩き込まれていたからです。ところが、それらすべてをしっかり守りながらなお、永遠の生命を頂く確信を持てずに悩んでいた人が主イエスさまに永遠の生命への道を尋ねたのです。

主イエスさまはその人を見て瞬時に見抜かれました。先祖伝来の掟。十戒を守りながらも、それらの掟が何のために定められているのか、という肝心要の部分を知らないでいることを。

 この人は厳格に掟を守っていても、定められたお方である神さまを忘れ、神さまに依り頼む姿勢を持っていなかったのです。惜しいかな、この人は神さまに頼らずとも、持っているたくさんの財産によって既に守られていたのです。

財産に限らず何かを持っほどに人はそれらを守ろうという思いに駆られてしまいます。持っていると思う何かによって自分が守られていると錯覚してしまうようです。そこで主イエスさまは「金持ちが神の国に入るよりもラクダが針の穴を入るほうがまだ易しい」と表現されたのです。 あれもある、これもあるという人生は実は最も必要なものに欠ける人生に近いことにもなりかねないのです。貧しい人は幸い、ですねo













聖霊降臨後第21主日(特定24) 2015年10月18日
マルコによる福音書 第10章35−45節
ゴールを間違えているゾ!

 エーッ仲間を出し抜こうど言うんですか?同じ釜の飯を食べてきた仲間なら「裏切者!」と憤慨しても当然 です。どうもヤコブとヨハネは抜け目のない兄弟だったようです。よく言えば先を読む兄弟だったといえましょうが。「わたしの右や左に誰が座るかは、わたしの決めることではない。」主イエスさまですら決めるこどができないこと、つまり父なる神さまの領分のことである、と言われたのです。

 ヤコブとヨハネはこの時点で主イエスさまをこの世のお方、と捉えていたのです。主イエスさまは神の国を目指して活動して居られたのですが、弟子たちはこの世における報いを得よう、と主イエスさまに働きかけたのです。

 イエスは救い主である、と言う信仰に生きようとする者はこの世における栄達や富に心を奪われてはならないのです。主イエスさまに従う者に対する報いは父なる神さまがご用意され、父なる神さまの基準によって与えられるものなのです。わたしたちが目指すべきゴ 一ルは神さまがご用意されているものなのです。ゴー ルを間違えて走ってはその努力は空しいものとなることでしょう。














聖霊降臨後第22主日(特定25) 2015年10月25日
マルコによる福音書 第10章46−52節
ダビデの子イエスよ、
わたしを憐れんでください!

 バルティマイすなわちティマイの子が叫んだところ主イエスさまはその願いを聞き入れてくださいました。その叫びは「目が見えるようになることです。」と言う切実なものでした。対する主イエスさまのお言葉は「行きなさい。」と言う簡潔なものでした。

 「ダビデの子よ!との呼びかけは主イエスさまをメシア・救い主と信じます、と言う信仰なしには発し得ないものでした。軽々しく「メシアよ、ダビデの子よJとロにすることは神を冒潦する者と見做され石打の刑に遭い殺され るかもしれない危険をはらむものでしたのに…。敢えて危険を冒してまで主イエスさまに縋ろうとするバルティマイの叫びに主イエスさまは耳を傾けられたのです。

 次主日は諸聖徒日です。教会は主イエスさまに心の底から救いを求め叫んだすべての人々・聖徒を覚えてその願いが聞かれ、永遠の生命に入れられますように、と祈ります。それはすでに世を去った人々のために祈るばかりではなく、今も世に在って主に仕えるすべての人々もまた、永遠の生命に入れていただくことができますようにと祈るものです。そうです、主イエスさまに仕え生きようとするあなただって聖徒の一人なのです。です から、次週の諸聖徒日とはあなたのために、私のために折る日でもあるのです。



諸聖徒日 2015年11月1日
マタイによる福音書 第5章1−12節 ルカによる福音書 第6章20−26節
あなたもわたしも聖人のうち!

 本日は諸聖徒日です。主イエスさまに従うすべての人々、世を去った人々となお、この世にあって主に仕えるすべての人々のために祈る日です。もちろ ん永遠の生命に入れて頂けますように、と。

 もともと4世紀ごろまで遡ることのできる聖人や殉教者を記念して礼拝する習慣は、8世紀ごろのローマ教皇がローマのサンピエトロ(聖ぺテロ)聖堂に使徒とすべての聖徒、殉教者のための小聖堂をつくり聖別したことで確固とされたようでした。さらに後日この小聖堂の聖別の日が11月1日に定 められたことから諸聖徒日を11月1日に守るようになったと言われます。

 ところで、アイルランドの人々や英国の先住民ケルトの人々の習慣として11月1日の前日はハロウ・イヴと呼ばれキリスト教伝来以前から精霊たちを祭る夜とされていたそうです。この両者が結びついて今日のハロウインであるとのことです。

 一年の収獲を終え、厳しい冬に備える時期に人々は世を去った人々のために祈りつつ、彼らの助けを借りて厳しい冬に立ち向かうことができるよう祈ったのでしよう。そして、そこには精霊たちの力と重なるものがあったのでしよう。

 いずれにしても、主にある家族であるわたしたちすべてが何としても永遠の生命に入れて頂けるよう心を込めて祈りましよう。
























聖霊降臨後第24主日(特定27) 2015年11月8日
マルコによる福音書 第12章38−44節
レプトン銅貨ニ枚の重み

主イエスさまは時々意外なことをされます。その時はなぜか神殿の賽銭箱の脇におられ、人々が御金を入れる様子をご覧になって感想を述べられたのです。金持ちがたくさん入れたかどうかはともかくとして、貧しいやもめがささやかな献金をする様子をご覧になって「この婦人が一番たくさん入れた。」言われたのです。

 教会は献金を勧めます。それは教会が御金を集めるために勧めるということよりも「捧げるJと言う行いを重視しての結果なのです。もちろん財政的な基盤なくして教会は成り立たない、と言う現実的な問題を満たすと言う面はありますが、最も重視されるべきは「神様に対する感謝」「すべてを私たちに委ねておられる神さまにお返しする」と言う面こそ大切にされているのです。 金額からすれば貧しいやもめの捧げものは微々たるも のかもしれませんが、貧しいお財布の中のすべてを捧げたその姿勢は金持ちの豊かな財布から捧げられた弟妹よりも遥かに重い意味を持っていた、それ故に主イエスさまはこの貧しいやも?は誰よりも多く捧げた、と称賛されたのです。

 わたしたちが「痛い」と感じるほどの捧げものをしているのか、と振り返ってみる必要があることを思い知らさせるレプトン銅貨ニ枚の捧げものです。



聖霊降臨後第25主日(特定28) 2015年11月15日
マルコによる福音書 第13章14−23節
「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。」

 平野でもなく、海でもなく、山に逃げなさい、とはどういうことなのでしょうか。旧約聖書の中で「山」は恒久的 なもの、不動のものに替えられ、従って聖なる所、神の臨在し給う所としてしばしば語られています。

 存亡危急の時、「山に逃げなさいjとは神さまに頼れ、 他の何ものにも頼るべきではない、と教えているのでし ょう。さらに、他のどんなものにも執着することがないように、と続けています。

 神さまがお召しになるとき、わたしたちはしばしばいいわけをしてお召しに応えることを先延ばしにしようとしてはいないでしようか。それはお召しに応えることの怖さを本能的に知っているからなのかもしれません。 人は人知に頼ろう、名誉を大切にしよう、富に重心を置こうとするとき山から下りる傾向があるように思います。 そして神さまを忘れ、神さまから離れて生きようとしてしまうようです。

 神さまに立ち返ることを常に自分に言い聞かせる必要がわたじたちに求められているよ引こ思います。喧噪を離れ山に帰る、神に立ち返ることが必要なんですね。






降臨節前主日(特定29) 2015年11月22日
マルコによる福音書 第11章1−11節
「自分の服を道に敷き葉のついた枝を切って来て道に敷いた。」

 これは主イエスさまのエルサレム入場を無為会える人々の歓迎ぶりを記したものです。わたしたちの感覚 からするとチヨット理解できないことなのですが、人々は自分の衣服やわざわざ野原へ出かけていって行って採ってきた若木を道に敷いて歓迎ぶりを示しました。

 この場合衣服とは外套を示す言葉で、当時の民衆の防寒衣兼夜具(お布団?)と言ったものでした。若木は柔らかい木の枝と言うことですから硬い敷石の道路に柔らかいものを敷き詰めた、貴賓を空港に迎えたときにカーペットを敷き詰め歓迎の意を表する、あの情景に似ていたと言ってよいでしようか。

 次週から教会は降臨節、ご降誕、遣わされたつまり神さまの独り子を迎え入れる準備の期節に入ります。 大切なお方をお迎えする準備をおさおさ怠るなかれ、と言う訳です。大事な大事な外套やわざわざ郊外の野原まで行って採ってきた柔らかい若木を道に敷くほどの歓迎ぶりを示すことができるでしようか。いえ、そうしなさい、と教えられているのです。しっかり準備をしてご降誕日を迎えましょうね。
















降臨節第一主日 2015年11月29日
ルカによる福音書 第21章25−31節
神の国が近づいた……

 本主日から教会は降臨節に入りました。クリスマスを待ち望む期間として、ご復活を待つ期間である大斎節と同様、断食し修養に励むことが推奨されます。

 降臨節とはアドヴェントの訳語で教派によって呼び方が異なっています。アドヴェントを教派名にしている教団もありますので、原語のまま用いるよりも訳語で 「降臨節」と言う方が誤解がなくてよいようです。聖書は全体として読み、解釈を進めるべき、と言われます。

 ご降臨、再臨が協調されるあまり、何月何日とまで特定するようになりますと日々の営みがおろそかにされるようになってしまいます。昨日があり、今日がある、そし て今日があって明日があります。日々を着実に生きつつ、いつ主イエス様が来られてもよいように儷えることがわたしたちに求められているのです。

 神の国が着実に近づいている、それは確かなことです。「とき」は進むものです。けれどもその日、その時はわたしたちが決めることではありません。神さまがもたらして下さることなのですからその時に向かって緊張しつつ、落ち着いて待つと言う姿勢を保ちたいものです。




降臨節第二主日 2015年12月6日
ルカによる福音書 第3章1−6節
え−と、どちらのヨハネさんで?

 イスラエルでは子供に名前を付けるときには家族、親戚の人の名前を頂く習慣があったっそうです。ですから、国中同じ名前の人がウジャウジャおり、区別するために誰それの子供という意味で親の名前をくっつけたり、あだ名をつけていたそうです。

 ヨハネ、ヤコブなどもこの例に漏れないありふれた名前だったようです。本日の福音書にも「ヨハネ」が出現します。このヨハネさんは主イエスさまの道備えとして神さまから遣わされた方で主イエスさまにヨルダン川のほとりで洗礼を授けました。そして自らを「主イエスさまの靴の紐を解く値打ちもない者」と位置付けています。

 人は神さまから様々な賜物、タレントをいただいています。当然誰もが華々しい存在ではありません。むしろ社会の隅で生きる者がほとんどであると言えましょう。クリスマスを迎える準備の時、降臨節にあたり、地味ではあるけれども大切な務めを負って居る者として神さ まに誠実に生きようとすることが求められているように思います。

 聖書の中で華々しい存在として描かれているヨハネとは異なるヨハネが存在し、主イエスさまの道備えに徹した生涯を送ったことを心に留めたいものです。「あなた様はどちらのお方ですか」と尋ねられた時に「いえ、とるに足りないものです。」と答えつつ、主イエスさまの 道備えとなるべく励みましょう。




降臨節第三主日 2015年12月13日
ルカによる福音書 第3章7−18節
「欲張り」こそ、私たちを神に国から遠ざける

 「蝮の子ら」と言われて人々はドキっとしたことでしょうね。この場合の蝮とは巨大な蛇、すなわち制御しがたい怪物というような意味であるともいわれます。言いえて妙、だと思います。人間の欲望はある意味、制御しがたい怪物のようなものですから。

 洗礼者聖ヨハネの激しい叱責を受けた群衆が「それではどうしたらよいのですか」と尋ねたのに対して聖ヨハネは「分かち合え、欲張るな、貧るな」と答えました。神の国に向け入れて頂くために私たちがなすべきはそんなに大きなことをする必要がない、と教えているように思います。社会の片隅に生きるような小さな存在であっても、それぞれが神さまから与えられたものをしっかり用い、他人を羨んだり、他人の物を自分のものとするようなことはせず、かえって持っているものを互いに分かち合う、そう言う生き方をするときに、ささやかであっても平和がそこに生まれ、神の国の実現を垣間見ることができるのだ、と。

 クリスマスを迎える準備とはまさに、私たちの日常の中にあるそのような極々些細なことを誠実に実行していくことの中にあるように思います。必ずしも新聞やテレビで誉めそやされるようなことを行う必要があるのではなく、日々の行いをなすことの中にあると思うのです。さあ、よくバルナ心から解放され、分かち合う心を育てクリスマスを迎える備えと致しましょう。

















降臨節第四主日 2015年12月20日
ルカによる福音書 第1章39−45節
メリークリスマス?それともハッピーホリデイズ?

 降臨節もアッという間、いよいよクリスマス本番を迎えようとしています。世の中こぞってクリスマスを楽しみにしている様子がうかがえます。

 ところで、最近世界的な傾向として他宗教に対する寛容であるべきことが強調されるようです。食べ物に関しても宗教上の理由であるものを食べない人々に対する思いやりが求められます。飛行機に乗ると出される食事が異なる場面に出会います。

 しかしまた、この他宗教への対応が最近両極端に振れているように感じられます。欧米に押し寄せる難民を巡っては殊に顕著であるように思います。一方では毛嫌いし排斥するかと思えば迎合しているのではないかと思える程の例もあるようです。例えば、クリスチャンでない人々の感情に配慮してクリスマスの挨拶もメリークリスマスではなくハッピー~ホリデイズとすべきと主張する人々まで現れてきているそうです。

 ですが、教会ではやっぱり「メリークリスマス」と大きな声できはっきりど挨拶を交わしたいものです。異なる立場、信条、信仰を互いに認め尊重しあったとしても、クリスマスがキリスト誕生礼拝であることを他の何かに置き換えしてはならないでしょう。キリスト信徒として。


降臨節第四主日 2015年12月27日
ヨハネによる福音書 第1章1−18節
あなたも現在受聖餐者ですよね?

 クリスマスのうれしい期節を迎えました。どうぞ、この期節に全教会員が陪餐されることをお勧めいたします。現在受聖餐者の要件は在籍教会で一年に二回以上陪餐したものとありますが、これはかつてご復活日とご降誕日の二回だけ信徒に陪餐が許されていたことに由来する規定なのです。「二回」とはですから陪餐できる機会すべてにおいて陪餐している者、ということを意味します。

 この世の習いでは年末年始は何かと多忙な時期ではあります。だからこそ、キリスト信者がその多忙な時期に何はさておいても礼拝に参加し、陪餐することがこの世に対する何にも勝る証となるのです。

 晴れやかな面持ちで教会の礼拝に参加し、陪餐される皆さんのお姿を待ち望んでおります。いらっしゃいませ−ッ。主イエスさまと共に歓迎いたしますですよ。

緑横線

聖書03




マルコによる福音書 第1章9−13節

 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。



マルコによる福音書
第8章31−38節

 それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

ヨハネによる福音書
第2章13−22節

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

ヨハネによる福音書
第6章4−15節

 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

ヨハネによる福音書
第12章20−33節

 さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」人の子は上げられる「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。

マルコによる福音書
第15章1−39節

 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。そして、イエスをゴルゴタという所――その意味は「されこうべの場所」――に連れて行った。没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、/その服を分け合った、/だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者 十字架から降りて自分を救ってみろ。」 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

マルコによる福音書
第16章1−8節

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。


ヨハネによる福音書
第20章19−31節

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

ルカによる福音書
第24章36−48節

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。

ヨハネによる福音書
第10章11−16節

わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

ヨハネによる福音書
第14章15−21節

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

ヨハネによる福音書
第15章9−17節

父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

ヨハネによる福音書
第17章11−19節

わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。

ヨハネによる福音書
第14章8−17節

フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

ヨハネによる福音書
第3章1−16節

さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

マルコによる福音書
第3章20−35節

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

マルコによる福音書
第4章26−34節

また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

マルコによる福音書
第4章35−41節

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

マルコによる福音書
第5章22−43節

会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

マルコによる福音書
第6章1−6節

イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。




マルコによる福音書
第6章7−13節

そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。







マルコによる福音書
第6章30−44節

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。



マルコによる福音書
第6章45−52節

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。





ヨハネによる福音書
第6章24−35節

群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。



ヨハネによる福音書
第6章60−69節

ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」



ヨハネによる福音書
第7章1−15節

 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、



マルコによる福音書
第7章31−37節

それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」



マルコによる福音書 第8章27−38節

イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」



マルコによる福音書 第9章38−48節

ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。



マルコによる福音書 第10章2−9節

ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」







マルコによる福音書 第10章17−27節

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」


マルコによる福音書 第10章35−45節

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコによる福音書 第10章46−52節

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。エスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


マタイによる福音書 第5章1−12節

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

ルカによる福音書 第6章20−26節

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」

マルコによる福音書 第12章38−44節

イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

マルコによる福音書 第13章14−23節

憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。屋上にいる者は下に降りてはならない。家にある物を何か取り出そうとして中に入ってはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。主がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、主は御自分のものとして選んだ人たちのために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『見よ、あそこだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである。だから、あなたがたは気をつけていなさい。一切の事を前もって言っておく。」

マルコによる福音書 第11章1−11節


一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、/祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、/祝福があるように。いと高きところにホサナ。」こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

ルカによる福音書 第21章25−31節


「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」「いちじくの木」のたとえそれから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。」

ルカによる福音書 第3章1−6節


皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、/山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、/でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」







ルカによる福音書 第3章7−18節

そこでヨハネは、洗礼を授けてもらおうとして出て来た群衆に言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。 ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。

ルカによる福音書 第1章39−45節

そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」





ヨハネによる福音書 第1章1−18節

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。