こちらのページは2013年10月13日からの後半部分です。
 礼拝時に読まれる福音書の補足を 「今さらですが‥・」シリーズ として宇田司祭が週報に書かれていますので、こちらに転記しておきます。
 ページの右側に記載した福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。

本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
著作権所有者は下記の通りです。
 (c)共同訳聖書実行委員会
  Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会
  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

聖霊降臨後第21主日 2013年10月13日
ルカによる福音書 17 章 11-19 節
「わたしたちを憐れんでください」
 絶体絶命、言葉で聞いてはいても実感することはそうもありません。また実際、瀬戸際とか土壇場と言うような命のやり取りの場面がそうたびたびあったのではたまりません。  「イエスさま、先生!私たちを憐れんでください!」と叫ぶ人々は社会から「絶交する」と宣告された人々で、人生が回復される望みをこの叫びに込めていたのです。彼らの残された希望は唯一点、主イエスさまのみだったのです。この悲痛な叫びを、主イエスさまは受け止め、願いを聞いてやったのです。  ところが、願いを聞き入れられ、社会復帰を果たした時、感謝を以てみ前に出た者は、蔑まれ、疎んじられていた異邦人だけであったのです。アブラハム、イサク、ヤコブの末裔であると誇っていた人は一人もいなかったと言うのです。「何と恩知らずな。」とお思いでしょう。  「他人事ではないのだよ。お前さんのことを言っているんだよ。」救われて当然と思っていた人々の特権意識・エリート意識を主イエスさまは諌められるのです。それは当時のイスラエルに対すると同時に今日の私たちに対しても発せられているのですが…  最後に主イエスは立ち返った人に対して「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。」と声を掛けておられます。主イエスの下に立ち返った者こそ救いに値する者とされると言われるのです。







聖霊降臨後第22主日 2013年10月20日
ルカによる福音書 18 章 1-8a 節
「あーっ、しつこいなぁ!」
 気を落とさず、絶えず祈ることの大切さを主イエスは教えられました。とかく、私たちは熱心であればあるほどほど、願いがかなわないことに落胆し、その反動?で不信仰に陥りがちです。主イエスは裁判官が辟易するほど押しかけてきて騒ぎ立てるやもめとそれに根負けして願いを聞いてやった事例で教えて居られます。  イスラエルでは通常、町の門に長老たちが集まっており、取引も裁判もそこでなされておりました。しかし、一向に訴えを取り上げてくれない裁判官に対して自宅まで押しかけ日夜訴え続けるやもめ。裁判官は「あーっ、しつこくてたまらん。」と根負けしてそれ以上纏わりつかれないように願いを聞いてやったのです。「しつこいなぁ、うるさくてかなわん!」と思わせるくらい神さまに纏わりつくならば、私たちの願いは聞かれないことはない、と教えられるのです。  信仰には「ねちっこさ」が求められるようです。願いがかなわないことが続いても、「これでもか、これでもか」とばかりに食らいつくことが大切なのですね。潔く引っ込むようではだめだ、と言うことなのでしょう。いまわの際までしつこく、神さまに纏わりつくことにしましょう。










聖霊降臨後第23主日 2013年10月27日
ルカによる福音書 18 章 9-14 節
「誰でも高ぶるものは低くされ、遜るものは高められる?」
 誰でも?「異議あり!」と叫びたくなるのがこの世の現状ではないでしょうか。お先にどうぞなどと言っていてはバーゲンセールで何も買えませんし、ラッシュアワーの電車の席に座ることもできません。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう。」と言って首相になった人もありますが、戦略としてふるまっていたにすぎないでしょう。謙遜していたのではそれに乗じて攻めたてられる、それがこの世の常ですから。  しかし、「世の常ではそうであっても、あなた方の間ではそうあってはならない。」と主イエスは言われます。神さまは人間の神に取って代わらんばかりの高慢な、浅はかな知恵を砕かれる、と言われます。この世の物差しの中で生きるならばそこまでであって、主イエスの示される世界に入ることはできないと言われるのです。永遠の生命を望むなら、神さまの物差し、尺度に生きることが必要であると言うことなのでしょう。「あなたはどうされますか」、と神さまは問い続けられているのです。







聖霊降臨後第24主日 2013年11月 3日
ルカによる福音書 19 章 1-10 節
「急いで降りてきなさい」
   収税請負人の元締めのザアカイは経済的には豊かであったけれども世人々からは蔑まれ疎まれ爪はじきされて居たのです。主イエスが来られると言うので一目見たいと思ったけれども、誰一人ザアカイの為に場所を譲ってはくれませんでした。そこでザアカイは木に上って主イエスをひと目見ようとしました。そのザアカイに主イエスは声を掛けられました。 「急いで降りてきなさい。」神さまに出会おうとするなら「低きに降りなければならない」、と言うことなのでしょうか。何を差し置いてもお答えしなければならない」と言うことなのでしょうか。ともあれ、主イエスはザアカイの家に泊まり、食事を共にすると言われたのです。これを聞いた人々も、ザアカイすらも驚いてしまいました。  神さまは思いがけない時に、思いがけない方法で私たちに臨まれるのです。蔑まれ、疎まれ、爪はじきにされているような人であっても神さまはご自身のご計画に従って選び出され、用いようとされるのです。  私たちはですから、勝手に神さまの出番を演出することはできないのです。神さまはそんな私たちの期待を見事に打ち破って私たちに臨まれるのです。心を空しくして臨まれる神さまをお待ちする、そういう姿勢が求められているのではないでしょうか。








聖霊降臨後第25主日 2013年11月10日
ルカによる福音書 20 章 27,34-38 節
「復活があることを否定するサドカイ派」
 新約聖書の中にはいくつかの集団、派閥のことが述べられています。出身地による故障もありましたが、信仰上の特徴から呼ばれた者もありました。今日の福音書にはサドカイ派が取り上げられています。この人々はしばしパリサイ派と対立る形で描かれています。民間?の宗教指導者の下にあったパリサイ派の人々とは反対に祭司・宗教貴族を背景に持つ人々であったそうです。主張としてはよみがえり、来世における罰や報い、天使や霊の存在を否定したと言うことです。そういう意味では現世主義、現実主義的でもあったようです。ダビデ王の時代に重用された祭司ザドクの流れをくむものとしてサドカイ派と呼ばれたのだそうです。  ザドクとは「義しい(ただしい)」と言う言葉から転じたともいわれます。あしかし、自分のみが義しいとしたり、パリサイ派のように自分たちだけが潔い(きよい)、とする時それは独善に陥り神さまを忘れてしまうようです。重箱の済をつつく様な隘路に通いこんでしまっては木を見て森を見ずとなってしまうことでしょう。


















聖霊降臨後第26主日 2013年11月17日
ルカによる福音書 21 章 5-19 節
「わたしの名の為にあなた方はすべての人に憎まれる」
 キリスト信仰を受け入れ、生きる人の数は殊に日本においては一定の割合以上には増えていません。それどころかかえって減っている感すらあります。キリスト教信徒は日本においては少数者であり続けています。  かつてキリスト教国においては泥棒も犯罪者もいないと思い込んでいた人もいたそうですが現実はそうではありません。そればかりかキリスト教(国)の名において犯罪を犯した例すらあります。絶対多数と言う「おごり」がなさしめた結果でもありましょう。  主イエスは「わたしの名の為にあなた方はすべての人に憎まれる」と言われました。それはこの世の大多数の人々からは相容れないもの、として扱われると言うことなのではないでしょうか。それほどまで神さまに反する力がこの世においては肥大している、と言うことなのでしょう。反対者の数は絶大なのです。  神さまに忠実であり続ける、という主イエスの教えにに従う人々は少数であるが故にその存在、その生き方が輝いて明らかにされるのです。まさに地の塩、世の光として明らかにされるのです。いかに、少数者であろうともその特質を失うことがないならば、輝き続けることが出来るのです。ジッと耐えつづけるようにしてでも主イエスに従う生き方を保持することが大切なのです。最後に受ける勝利の冠を待ち望みつつ。



















降臨節前主日 2013年11月24日
ルカによる福音書 23 章 35-43 節
使徒聖アンデレにならう
 私たちの聖公会では教会の名前に使徒や聖人の名前を地名と合わせて用いることが多いようです。静岡県では静岡聖ペテロ、浜松聖アンデレ、清水聖ヤコブ、沼津聖ヨハネ、伊豆は聖マリヤと言うように。いずれも宣教者の願いが込められているように思います。しかし、それぞれの教会ではそのことをどれほど意識しておられるのでしょうか。  聖アンデレに関してはあまり聖書の中では触れられておりません。最初に主イエスさまに出会った弟子でしたが聖ペテロを主イエスさまに引き合わせたり、ギリシャ語を話す人々と主イエスさまとの間に立って仲介したことなどが知られますが、それ以外には華々しく記されることはありません。 アンデレとは「男らしい」と言う意味だそうですが、自己喧伝することなく、ただ黙々と自分のなすべきを果たしていたようですね。「俺が、俺が」としゃしゃり出るでもなく、しかし、神さまに忠実に生きる、そんなイメージがわき上がってくるように思いませんか。 聖アンデレの名を頂く教会も、洗礼名に頂く人も派手さはなくも着実に信仰生活を送るべく召されているように思います。私たち浜松聖アンデレ教会も聖アンデレのように着実に歩み続ける、そういう教会であり続けたいものです。
聖書の中の聖アンデレについてこちらもご覧下さい







降臨節第1主日 2013年12月 1日
マタイによる福音書 24 章 37-44 節
使徒聖アンデレにならう
 私たちの聖公会では教会の名前に使徒や聖人の名前を地名と合わせて用いることが多いようです。静岡県では静岡聖ペテロ、浜松聖アンデレ清水聖ヤコブ、沼津聖ヨハネ、伊豆は聖マリヤと言うように。いずれも宣教者の願いが込められているように思います。しかし、それぞれの教会ではそのことをどれほど意識しておられるのでしょうか。  聖アンデレに関してはあまり聖書の中では触れられておりません。最初に主イエスさまに出会った弟子でしたが聖ペテロを主イエスさまに引き合わせたり、ギリシャ語を話す人々と主イエスさまとの間に立って仲介したことなどが知られますが、それ以外には華々しく記されることはありません。 アンデレとは「男らしい」と言う意味だそうですが、自己喧伝することなく、ただ黙々と自分のなすべきを果たしていたようですね。「俺が、俺が」としゃしゃり出るでもなく、しかし、神さまに忠実に生きる、そんなイメージがわき上がってくるように思いませんか。 聖アンデレの名を頂く教会も、洗礼名に頂く人も派手さはなくも着実に信仰生活を送るべく召されているように思います。私たち浜松聖アンデレ教会も聖アンデレのように着実に歩み続ける、そういう教会であり続けたいものです。






降臨節第2主日 2013年12月 8日
マタイによる福音書 3 章 1-12 節
洗礼者聖ヨハネにならう
 主イエスがお生まれになる少し前に母マリヤの従妹から洗礼者聖ヨハネが生まれました。聖ヨハネは長じて人々に悔い改めの洗礼を施すようになっていました。あらゆる地方からヨルダン川で洗礼を施している聖ヨハネの下に人々が詰めかけました。この人々に聖ヨハネは容赦のない声を掛けます。「洗礼を受けたからと言って神の怒りを免れることが出来るなどと思ってはならない」と。  聖ヨハネは自身は来るべきお方が来られるに際して道備えをするものに過ぎない、本当の救いはそのお方によってもたらされるのだ。だからしっかり準備をしてそのお方のこられるのを待て、と。  わたし達の使命もここにあります。主イエスさまが再びこの世に来られる時行われる裁きにH時と人が耐えられるように働きかけると言う大切な務めが私たちに与えられているのです。私たちが救われることはもちろん逃がせませんが、それ以上に人々のために尽くすことが求められているのです。だから、人々が救われるように、救われるための備えができるように祈らなければならないのです。洗礼者聖ヨハネにならう生き方が求められるのです。


















降臨節第3主日 2013年12月15日
マタイによる福音書 11 章 2-6 節
「来るべき方は、あなたでしょうか」
 洗礼者聖ヨハネは獄中から弟子を主イエスさまの下に遣わして尋ねています。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たねばならないでしょうか」ヘロデ王とヘロデアの結婚に異を唱えた為に獄に繋がれていた洗礼者は主イエス様ご自身の口から確かな言葉を聞こうとしたのです。それは主イエスさまに対する自身のありようを確かめるためでもあった、と言えましょう。  実は私たちはいつも主イエスさまから問いかけられています。「私の周りで起こっている事実を前に、あなたはなにものであろうとするのか。」と。 クリスマスの出来事を前にして、わたしたちはどうあろうとしているでしょうか。主イエスさまにむかって胸を張って「あなたこそ神の独り子救い主キリストです。」と答えることが出来ますように。クリスマスを迎える準備とはまさに、私たち自身を整えることに外なりません。


降臨節第4主日 2013年12月22日
マタイによる福音書 1 章 18-25 節
「神は我々と共におられる」
 わたしたちは皆名前を持っています。名無しの権兵衛とはやされた人だって「権兵衛」と言って呼ばれてしまっています。皆さんの名前がそうであるように、実は名前には意味が負わされているのです。 主イエスさまのお名前もまた、単なる命名者の願望、祈りを超越して、まさに神さまのみ心の反映そのものなのです。 インマヌエル、神は我々と共におられると呼ばれると預言されたお方は主はわが救いと言う意味の名前・イエスと名付けられたことと合わせて心に止めたいものです。ここにおいて、救いの神がわたしたちと共にいて下さると言う宣言が明らかにされたのです。














降誕後 第1主日 2013年12月29日
ヨハネによる福音書 1章1-18節
「初めに言があった」
 39巻の旧約聖書、27巻の新約聖書は神さまについて過不足なくしるしておりますが、実はこれらはすべて創世記において語られていると言っても差し支えはありません。さらに突き詰めて言うならば、冒頭の言葉がすべてを言い表していると言えましょう。  神さまの御意志の現れが「ことば」と表現されています。世界のすべてが神さまの御意志によってなった、と言うこと。ここからすべてが始まっているのです。  日々の事柄に追われて右往左往しているわたしたちですが、神さまに「在れ」と言う御意志、その現れである「言」がなければそれすら存在しえないのです。まったく、くよくよすることすら何の意味もなくなるのです。  嬉しい、楽しいばかりか、苦しい、悲しい、辛いなどすべては幹夫貴悪露のうちにあると言うことなのです。ですから、わたしたちはすべてを神さまにお委ねするしかないのです・いえ、そのようにすることが許されているのです。クリスマスの出来事はそのことの証であるのです。良かったですね。有難いことですね。クリスマスおめでとうございます。















緑横線

聖書01







ルカによる福音書 17 章 11-19 節

 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

ルカによる福音書 18 章 1-8 節

 イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。「ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。ところが、その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていた。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない。』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」


ルカによる福音書 18 章 9-14 節

 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


ルカによる福音書 19 章 1-10 節

 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」


ルカによる福音書 20 章 27-40 節  

 

 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。


ルカによる福音書 21 章 5-19 節  

 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」  そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

ルカによる福音書 23 章 35-43 節

 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。


マタイによる福音書 24 章 37-44 節

 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、 人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。 人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。 家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、 目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。


マタイによる福音書 3 章 1-12 節

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。


マタイによる福音書 11 章 2-6 節

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」


マタイによる福音書 1 章 18-25 節

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

ヨハネによる福音書 1:1-18

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。