礼拝時に読まれる福音書の補足を 「今さらですが‥・」シリーズ として宇田司祭が週報に書かれていますので、こちらに転記しておきます。
ページの右側に記載した福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。
本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
著作権所有者は下記の通りです。
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
ルカによる福音書 17 章 11-19 節
「わたしたちを憐れんでください」
絶体絶命、言葉で聞いてはいても実感することはそうもありません。また実際、瀬戸際とか土壇場と言うような命のやり取りの場面がそうたびたびあったのではたまりません。 「イエスさま、先生!私たちを憐れんでください!」と叫ぶ人々は社会から「絶交する」と宣告された人々で、人生が回復される望みをこの叫びに込めていたのです。彼らの残された希望は唯一点、主イエスさまのみだったのです。この悲痛な叫びを、主イエスさまは受け止め、願いを聞いてやったのです。 ところが、願いを聞き入れられ、社会復帰を果たした時、感謝を以てみ前に出た者は、蔑まれ、疎んじられていた異邦人だけであったのです。アブラハム、イサク、ヤコブの末裔であると誇っていた人は一人もいなかったと言うのです。「何と恩知らずな。」とお思いでしょう。 「他人事ではないのだよ。お前さんのことを言っているんだよ。」救われて当然と思っていた人々の特権意識・エリート意識を主イエスさまは諌められるのです。それは当時のイスラエルに対すると同時に今日の私たちに対しても発せられているのですが… 最後に主イエスは立ち返った人に対して「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ。」と声を掛けておられます。主イエスの下に立ち返った者こそ救いに値する者とされると言われるのです。
聖霊降臨後第22主日 2013年10月20日
ルカによる福音書 18 章 1-8a 節
「あーっ、しつこいなぁ!」
気を落とさず、絶えず祈ることの大切さを主イエスは教えられました。とかく、私たちは熱心であればあるほどほど、願いがかなわないことに落胆し、その反動?で不信仰に陥りがちです。主イエスは裁判官が辟易するほど押しかけてきて騒ぎ立てるやもめとそれに根負けして願いを聞いてやった事例で教えて居られます。 イスラエルでは通常、町の門に長老たちが集まっており、取引も裁判もそこでなされておりました。しかし、一向に訴えを取り上げてくれない裁判官に対して自宅まで押しかけ日夜訴え続けるやもめ。裁判官は「あーっ、しつこくてたまらん。」と根負けしてそれ以上纏わりつかれないように願いを聞いてやったのです。「しつこいなぁ、うるさくてかなわん!」と思わせるくらい神さまに纏わりつくならば、私たちの願いは聞かれないことはない、と教えられるのです。 信仰には「ねちっこさ」が求められるようです。願いがかなわないことが続いても、「これでもか、これでもか」とばかりに食らいつくことが大切なのですね。潔く引っ込むようではだめだ、と言うことなのでしょう。いまわの際までしつこく、神さまに纏わりつくことにしましょう。
聖霊降臨後第23主日 2013年10月27日
ルカによる福音書 18 章 9-14 節
「誰でも高ぶるものは低くされ、遜るものは高められる?」
誰でも?「異議あり!」と叫びたくなるのがこの世の現状ではないでしょうか。お先にどうぞなどと言っていてはバーゲンセールで何も買えませんし、ラッシュアワーの電車の席に座ることもできません。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう。」と言って首相になった人もありますが、戦略としてふるまっていたにすぎないでしょう。謙遜していたのではそれに乗じて攻めたてられる、それがこの世の常ですから。 しかし、「世の常ではそうであっても、あなた方の間ではそうあってはならない。」と主イエスは言われます。神さまは人間の神に取って代わらんばかりの高慢な、浅はかな知恵を砕かれる、と言われます。この世の物差しの中で生きるならばそこまでであって、主イエスの示される世界に入ることはできないと言われるのです。永遠の生命を望むなら、神さまの物差し、尺度に生きることが必要であると言うことなのでしょう。「あなたはどうされますか」、と神さまは問い続けられているのです。
聖霊降臨後第24主日 2013年11月 3日
ルカによる福音書 19 章 1-10 節
「急いで降りてきなさい」
収税請負人の元締めのザアカイは経済的には豊かであったけれども世人々からは蔑まれ疎まれ爪はじきされて居たのです。主イエスが来られると言うので一目見たいと思ったけれども、誰一人ザアカイの為に場所を譲ってはくれませんでした。そこでザアカイは木に上って主イエスをひと目見ようとしました。そのザアカイに主イエスは声を掛けられました。 「急いで降りてきなさい。」神さまに出会おうとするなら「低きに降りなければならない」、と言うことなのでしょうか。何を差し置いてもお答えしなければならない」と言うことなのでしょうか。ともあれ、主イエスはザアカイの家に泊まり、食事を共にすると言われたのです。これを聞いた人々も、ザアカイすらも驚いてしまいました。 神さまは思いがけない時に、思いがけない方法で私たちに臨まれるのです。蔑まれ、疎まれ、爪はじきにされているような人であっても神さまはご自身のご計画に従って選び出され、用いようとされるのです。 私たちはですから、勝手に神さまの出番を演出することはできないのです。神さまはそんな私たちの期待を見事に打ち破って私たちに臨まれるのです。心を空しくして臨まれる神さまをお待ちする、そういう姿勢が求められているのではないでしょうか。
聖霊降臨後第25主日 2013年11月10日
ルカによる福音書 20 章 27,34-38 節
「復活があることを否定するサドカイ派」
新約聖書の中にはいくつかの集団、派閥のことが述べられています。出身地による故障もありましたが、信仰上の特徴から呼ばれた者もありました。今日の福音書にはサドカイ派が取り上げられています。この人々はしばしパリサイ派と対立る形で描かれています。民間?の宗教指導者の下にあったパリサイ派の人々とは反対に祭司・宗教貴族を背景に持つ人々であったそうです。主張としてはよみがえり、来世における罰や報い、天使や霊の存在を否定したと言うことです。そういう意味では現世主義、現実主義的でもあったようです。ダビデ王の時代に重用された祭司ザドクの流れをくむものとしてサドカイ派と呼ばれたのだそうです。 ザドクとは「義しい(ただしい)」と言う言葉から転じたともいわれます。あしかし、自分のみが義しいとしたり、パリサイ派のように自分たちだけが潔い(きよい)、とする時それは独善に陥り神さまを忘れてしまうようです。重箱の済をつつく様な隘路に通いこんでしまっては木を見て森を見ずとなってしまうことでしょう。
聖霊降臨後第26主日 2013年11月17日
ルカによる福音書 21 章 5-19 節
「わたしの名の為にあなた方はすべての人に憎まれる」
キリスト信仰を受け入れ、生きる人の数は殊に日本においては一定の割合以上には増えていません。それどころかかえって減っている感すらあります。キリスト教信徒は日本においては少数者であり続けています。 かつてキリスト教国においては泥棒も犯罪者もいないと思い込んでいた人もいたそうですが現実はそうではありません。そればかりかキリスト教(国)の名において犯罪を犯した例すらあります。絶対多数と言う「おごり」がなさしめた結果でもありましょう。 主イエスは「わたしの名の為にあなた方はすべての人に憎まれる」と言われました。それはこの世の大多数の人々からは相容れないもの、として扱われると言うことなのではないでしょうか。それほどまで神さまに反する力がこの世においては肥大している、と言うことなのでしょう。反対者の数は絶大なのです。 神さまに忠実であり続ける、という主イエスの教えにに従う人々は少数であるが故にその存在、その生き方が輝いて明らかにされるのです。まさに地の塩、世の光として明らかにされるのです。いかに、少数者であろうともその特質を失うことがないならば、輝き続けることが出来るのです。ジッと耐えつづけるようにしてでも主イエスに従う生き方を保持することが大切なのです。最後に受ける勝利の冠を待ち望みつつ。
降臨節前主日 2013年11月24日
ルカによる福音書 23 章 35-43 節
使徒聖アンデレにならう
私たちの聖公会では教会の名前に使徒や聖人の名前を地名と合わせて用いることが多いようです。静岡県では静岡聖ペテロ、浜松聖アンデレ、清水聖ヤコブ、沼津聖ヨハネ、伊豆は聖マリヤと言うように。いずれも宣教者の願いが込められているように思います。しかし、それぞれの教会ではそのことをどれほど意識しておられるのでしょうか。 聖アンデレに関してはあまり聖書の中では触れられておりません。最初に主イエスさまに出会った弟子でしたが聖ペテロを主イエスさまに引き合わせたり、ギリシャ語を話す人々と主イエスさまとの間に立って仲介したことなどが知られますが、それ以外には華々しく記されることはありません。 アンデレとは「男らしい」と言う意味だそうですが、自己喧伝することなく、ただ黙々と自分のなすべきを果たしていたようですね。「俺が、俺が」としゃしゃり出るでもなく、しかし、神さまに忠実に生きる、そんなイメージがわき上がってくるように思いませんか。 聖アンデレの名を頂く教会も、洗礼名に頂く人も派手さはなくも着実に信仰生活を送るべく召されているように思います。私たち浜松聖アンデレ教会も聖アンデレのように着実に歩み続ける、そういう教会であり続けたいものです。
聖書の中の聖アンデレについてこちらもご覧下さい
降臨節第1主日 2013年12月 1日
マタイによる福音書 24 章 37-44 節
使徒聖アンデレにならう
私たちの聖公会では教会の名前に使徒や聖人の名前を地名と合わせて用いることが多いようです。静岡県では静岡聖ペテロ、浜松聖アンデレ清水聖ヤコブ、沼津聖ヨハネ、伊豆は聖マリヤと言うように。いずれも宣教者の願いが込められているように思います。しかし、それぞれの教会ではそのことをどれほど意識しておられるのでしょうか。 聖アンデレに関してはあまり聖書の中では触れられておりません。最初に主イエスさまに出会った弟子でしたが聖ペテロを主イエスさまに引き合わせたり、ギリシャ語を話す人々と主イエスさまとの間に立って仲介したことなどが知られますが、それ以外には華々しく記されることはありません。 アンデレとは「男らしい」と言う意味だそうですが、自己喧伝することなく、ただ黙々と自分のなすべきを果たしていたようですね。「俺が、俺が」としゃしゃり出るでもなく、しかし、神さまに忠実に生きる、そんなイメージがわき上がってくるように思いませんか。 聖アンデレの名を頂く教会も、洗礼名に頂く人も派手さはなくも着実に信仰生活を送るべく召されているように思います。私たち浜松聖アンデレ教会も聖アンデレのように着実に歩み続ける、そういう教会であり続けたいものです。
降臨節第2主日 2013年12月 8日
マタイによる福音書 3 章 1-12 節
洗礼者聖ヨハネにならう
主イエスがお生まれになる少し前に母マリヤの従妹から洗礼者聖ヨハネが生まれました。聖ヨハネは長じて人々に悔い改めの洗礼を施すようになっていました。あらゆる地方からヨルダン川で洗礼を施している聖ヨハネの下に人々が詰めかけました。この人々に聖ヨハネは容赦のない声を掛けます。「洗礼を受けたからと言って神の怒りを免れることが出来るなどと思ってはならない」と。 聖ヨハネは自身は来るべきお方が来られるに際して道備えをするものに過ぎない、本当の救いはそのお方によってもたらされるのだ。だからしっかり準備をしてそのお方のこられるのを待て、と。 わたし達の使命もここにあります。主イエスさまが再びこの世に来られる時行われる裁きにH時と人が耐えられるように働きかけると言う大切な務めが私たちに与えられているのです。私たちが救われることはもちろん逃がせませんが、それ以上に人々のために尽くすことが求められているのです。だから、人々が救われるように、救われるための備えができるように祈らなければならないのです。洗礼者聖ヨハネにならう生き方が求められるのです。
降臨節第3主日 2013年12月15日
マタイによる福音書 11 章 2-6 節
「来るべき方は、あなたでしょうか」
洗礼者聖ヨハネは獄中から弟子を主イエスさまの下に遣わして尋ねています。「来るべき方はあなたでしょうか。それともほかの方を待たねばならないでしょうか」ヘロデ王とヘロデアの結婚に異を唱えた為に獄に繋がれていた洗礼者は主イエス様ご自身の口から確かな言葉を聞こうとしたのです。それは主イエスさまに対する自身のありようを確かめるためでもあった、と言えましょう。 実は私たちはいつも主イエスさまから問いかけられています。「私の周りで起こっている事実を前に、あなたはなにものであろうとするのか。」と。 クリスマスの出来事を前にして、わたしたちはどうあろうとしているでしょうか。主イエスさまにむかって胸を張って「あなたこそ神の独り子救い主キリストです。」と答えることが出来ますように。クリスマスを迎える準備とはまさに、私たち自身を整えることに外なりません。
降臨節第4主日 2013年12月22日
マタイによる福音書 1 章 18-25 節
「神は我々と共におられる」
わたしたちは皆名前を持っています。名無しの権兵衛とはやされた人だって「権兵衛」と言って呼ばれてしまっています。皆さんの名前がそうであるように、実は名前には意味が負わされているのです。 主イエスさまのお名前もまた、単なる命名者の願望、祈りを超越して、まさに神さまのみ心の反映そのものなのです。 インマヌエル、神は我々と共におられると呼ばれると預言されたお方は主はわが救いと言う意味の名前・イエスと名付けられたことと合わせて心に止めたいものです。ここにおいて、救いの神がわたしたちと共にいて下さると言う宣言が明らかにされたのです。
降誕後 第1主日 2013年12月29日
ヨハネによる福音書 1章1-18節
「初めに言があった」
39巻の旧約聖書、27巻の新約聖書は神さまについて過不足なくしるしておりますが、実はこれらはすべて創世記において語られていると言っても差し支えはありません。さらに突き詰めて言うならば、冒頭の言葉がすべてを言い表していると言えましょう。 神さまの御意志の現れが「ことば」と表現されています。世界のすべてが神さまの御意志によってなった、と言うこと。ここからすべてが始まっているのです。 日々の事柄に追われて右往左往しているわたしたちですが、神さまに「在れ」と言う御意志、その現れである「言」がなければそれすら存在しえないのです。まったく、くよくよすることすら何の意味もなくなるのです。 嬉しい、楽しいばかりか、苦しい、悲しい、辛いなどすべては幹夫貴悪露のうちにあると言うことなのです。ですから、わたしたちはすべてを神さまにお委ねするしかないのです・いえ、そのようにすることが許されているのです。クリスマスの出来事はそのことの証であるのです。良かったですね。有難いことですね。クリスマスおめでとうございます。