礼拝時に読まれる福音書の補足を 「今さらですが‥・」シリーズ として宇田司祭が週報に書かれていますので、こちらに転記しておきます。
 右記福音書を読まれた後、解説をご覧下さい、より理解が深まります。

本ページに掲載されている福音書は、「聖書 新共同訳」に基づいています。
著作権所有者は下記の通りです。
 (c)共同訳聖書実行委員会
  Executive Committee of The Common Bible Translation
 (c)日本聖書協会
  Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988

2014年1月〜5月分

降誕後第二主日 2014年1月5日
マタイによる福音書 第2章13−23節
ガリラヤ地方、ナザレと言う村
 ベツレヘムでお生まれになった主イエスさまですが、天使のお告げを受けた父ヨセフに連れられてエジプトに難を逃れていました。やがて天使に導かれユダヤに帰還ました。しかしなお危険が感じられたのでガリラヤ地方のナザレと言う寒村に引きこもった、とあります。
 大きな町、人々の注目を集めやすい環境を避け、時の満まで静かに待たれたのです。そこから神さまはご計画に基づいてすべてを用いられ、み心を露わにされたのです。
 すべてのことに神さまのご計画があるのです。ですから、今年も私たちは神さまのご計画に従って「時」を待ち、自分勝手に早まることのない日々を目指したいものです。





















顕現後 第1主日・主イエス洗礼の日 2014年10月12日
マタイによる福音書 第3章13−17節
「今は止めないでほしい」
 ガリラヤ湖から死海へ流れるヨルダン川は地溝帯と呼ばれる、言わば地球の臍のような海面下の低地です。低地の最も低いところがヨルダン川、と言う訳です。人々は洗礼を受けるために最も低い水辺に出かけていきました。それは「遜りの極み」を象徴します。
 主イエスさまは遜りの極みに自らを置き、救い主でありながら敢えて、「今は止めないでほしい」と言われ洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けられました。最も低い地に赴き、自らを低い者とされ洗礼を受けられたのです。主イエスさまは徹底した謙虚さを示されました。
 主イエスさまは「その時」が来るまで、神さまのみ心を飛び越えることなく謙虚に待たれたのです。私たちもまた、時には時を待つことが求められるのです。









顕現後 第2主日 2014年1月19日
ヨハネによる福音書 1 章 29-41 節
「イエスに従った二人のうちの一人は・・・・・アンデレであった。」
 洗礼者聖ヨハネから洗礼を受けられた主イエスに対する洗礼者聖ヨハネの証言を聞いたのち主イエスの招きに従った二人の青年がいた。そのうちの一人は聖ペテロの兄弟聖アンデレであった、と聖書は記しております。しかし何故か、もう一人については何も記しておりません。
 どうしたことなのでしょう。聖書を注意深く読むと、ほんの一握りの注目を集める人、少し触れられているだけの人、まったく忘れ去られたかのような人、脱落してしまったのでしょうか、消えて行った人もいることに気づかされます。
 さて、私たちはどうなのでしょうか。注目される一握りに含まれることはないにしても、脱落して消えてしまうことの内容に導きを祈るばかりです。



























顕現後 第3主日 2014年1月26日
マタイによる福音書 第4章12−23節
「♪ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ……は12弟子♪」
 12弟子と言われる主だった弟子たちのうちの4人が召し出された様子が記されています。
 主イエスは時が満ちるに及んでナザレを出て、いよいよ神.の子としての活動を始められました。その活動の第一は弟子を召し出される、と言うことでした。
 主イエスさまは敢えて弟子たちを召し出し、手足として働くように訓練することから始められたのです。なんと主イエスさまの側から弟子たちに近寄られ、働きかけをしてくださったのです。
 実に、神さまはいつも神さまの側から私たちに働きかけておられるのです。神さまがわたしたちをお召しになると言うことは、神さまがわたしたちの近くおられることのしるしなのですから、「お召し」を大いに喜びたいと思います。


















顕現後 第4主日 2014年2月2日
マタイによる福音書 第5章1−12節
両親はその子を捧げるため、…・
 初子、初穂は必ず神さまに捧げなければならない、これはイスラエルで必ず実行された掟でした。アブラハムがモリヤの山上でイサクを犠牲として奉げようとしたとき、ヤギを与えることを通して神さまは初子に代わる捧げものを以て神さまへの忠誠を示すことを許されました。初子そのものではない、代わりのものを捧げても忠誠を受け止めると神さまはおっしゃられたのです。
 主イエスさまの時代、さらに緩やかな代わりのものを定める規定がありました。貧しい者にも神さまに対する忠誠を示す道が示されていたのです。それが本日の福音書の示す捧げものに関する規定でした。
 マリヤとヨセフも貧しい若い夫婦でしたから貧しい者に対する救済措置とも言える最低限の捧げものを致しました。主イエスさまは最も貧しい者の捧げものにしか値しないものとして扱われたのです。この時にも主イエスさまは謙遜の極みにおられたのです。
 最も貧しい形であろうとも、己の持てる物の最上のものを捧げる、と言う姿勢を神さまは求められるのです。余り物ではない、神さまの為にとりわけておいたものこそ、神さまが喜ばれる捧げ物なのです。










顕現後 第5主日 2014年2月9日
マタイによる福音書 第5章13−20節
「あなたがたは地の塩である。」
 ご自身を神から遣わされた神の独り子であると言い表した主イエスさまは、教えを聞こうと集まる人々に語りかけられました。「あなた方は地の塩である。」と。
 塩は無ければならないものですが、表に出ると却って害を及ぼすことがあります。隠し味程度であったり、なじんだ塩は食べ物の素材を引き立てます。しかし、強すぎる塩味はすべてを台無しにしてしまいますし、健康を害することすらあります。「塩気を失った塩は外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである、」と主イエスさまは言われます。
 天然塩から塩分が溶け、流出してしまうなら残るものは砂や岩のかけらだけですから、残り物は邪魔なものとして投げ捨てられ、足蹴にされることでしょう。
 「あなた方は地の塩である。」とはわたしたちに何を求めておられるのでしょうか。それは、この世にあって決して多数派(マジョリティー)であることを望まず、むしろ少数派(マイノリティー)でありながらも輝きを失うことなく、キリストに基礎を置いて誠実に生きる姿を示し続ける、と言うことではないでしょうか。
















顕現後 第6主日 2014年2月16日
マタイによる福音書 第5章21−24,27−30、33−37節
何が必要ですか?
 モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は40年の間荒れ野をさまよわざるを得ませんでした。それはイスラエルの民にとって必要な期間、体験であったと言うこともできますが、「彷徨う」と言うことは目的が定まらない、いわば迷いの期間でもあったと言えるでしょう。
 神さまはモーセを通して十の戒めを与え、生きる方向、イスラエルとしての進むべき方向、指針を与えて下さったのです。ところがイスラエルの人々は十戒を守ること自体を目的に変えてしまいました。主イエスさまの時代の人々はまさにそのような情況にありました。
 十戒の重箱の隅をつつくような姿勢に対して主イエスさまは厳しく原点に立ち返るべきである、と指摘されました。十戒の表面をなぞるような生き方で十分とするのではなく、神さまが十戒を与えられた目的・ご意志は何なのかと問われます。
 本日の特祷がその問いに答えるヒントを与えています。人々と国々が健全なものとして歩むことが出来るようになる、つまり目的を見出すこともできず、ただ彷徨うような生き方をすることが無いように、生きる方向付けをして下さるために与えられた十戒であるのです。ご飯を食べることは食べること自体が目的なのではなく、神さまとの健全な関係を保って生きるために行うことに例えられるて然るべきでしょう。

特梼
 永遠にいます全能の神よ、み子イエス・キリストは病気の人をいやし、
健やかな命を回復されました。憐れみをもってこの世の悩みを顧み、
いやしのみ力によって、人びとと国々とを健全なものとして下さい。
主イエス・キリストによってお願いいたします。 アーメン























顕現後 第7主日 2014年2月23日
マタイによる福音書 第5章38−48節
「目には目を、歯には歯を」
 「やったらやり返せ、倍返しだ」最近はやりの言葉のようですね。「反撃しないとやられっぱなしになるからやり返しなさい。」とわが子に教える親が続出のようです。確かに世界最古の法であると言われるハムラビ法典にもこの記述があるそうですし、イスラエルの教えにもあります。そして、反撃権の根拠のように用いられることが多いようですが、それはハヤトチリと言うべき用い方で、実は、「目には目を」はこれだけで終わるものではありません。
 ひとは攻撃されるとアドレナリンがドッと出て興奮のあまり、過剰に反撃する習性があるそうです。「目には目を……」はこの過剰な反撃を戒めるものなのです。等価以上の賠償を求めてはいけない、と言う教えなのです。たしかに、「えい、も一つおまけじゃ」となりがちですよね。
 主イエスさまは等価以上の要求を禁じるどころか、反撃するどころか、「もっと、もっと相手に差し出しなさい」と教えられるのです。「復讐するは我にあり」と同胞間の復讐を禁じた教え(イザヤ、エレミヤ)の徹底を主イエスは説かれたのです。
 神さまは必ず、最後の審判において正義・公平を実現して下さる、と言う神さまへの絶対の信頼がそこにあるのです。そして「斯くあれ」とわたしたちを教えられるのです












大斎節前主日 2014年3月2日
マタイによる福音書 第17章1−9節
「イエスの姿が彼らの目の前で変わり…」
 今までよくわからないまま、なんとなく、漠然と主イエスさまに従っていた弟子たちは衝撃的な光景を目にすることになりました。お姿が目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなったとマタイf伝福音書は表現しています。
 彼らは、主イエスさまがまさに神の独り子・キリストとして認識させられたと言うことなのです。実に衝撃が彼らに走ったのです。聖ペテロは思わず、自分でも何を言っているのかわからないままに「小屋を三つ建てる」などと口走ってしまいます。
 このように、神さまからの働きかけを受ける時、わたしたちには「畏れ」が襲います。得も言われぬ衝撃が走ります。長いトンネルを抜けると、暗闇に慣れた私たちの目は明るい光に目が眩むみ、一瞬何を見ているのかわからない状態になります。
 そして暫くして目が慣れて来るとようやく世界が見えてきます。人生においても、暗いトンネルを通りぬけ、神さまにお会いする時、わたしたちには暫し、混乱が襲います。
 しかし、混乱にもひるまず、目をつむることなく、なお見つめる時真理の光が見えてくるのです。暫しの混乱にもひるむことなく、なおも神さまに光に目を向け続ける時、神さまの恵みは私たちに露わにされるのです。









大斎節 第1主日 2014年3月9日
マタイによる福音書 第4章1−11節
「悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」
 ガリラヤ湖からヨルダン川を下るとオアシスの町エリコに到達します。ここはエルサレムへ向かう道への分岐点でもあり、芳香の町あるいは棕櫚の町とも称され、古来交通の要所として栄えておりました。大勢の人が集まるところ、それは同時に人の欲望の渦巻く街でもありました。
 この町のヨルダン川の反対方向に険しい山肌が見えます。よく見ると崖にへばりつくように建造物が見えます。これは現在は修道院になっているそうですが、本日の福音書に由来するもので「欲望の山」と呼ばれているようです。この地で「石をパンに変えて見よ」「わたしを拝め」「神殿の高い屋根から飛び降りてみよ」と主イエスさまは悪魔の誘惑を受けました。
 これは人間の欲望の根源的なものであると言われます。主イエスさまがこれらの悪魔の誘惑、神さまから遠ざけようとする試みに打ち勝たれた時、悪魔は離れ去り、天使たちが来て仕えた、とあります。悪念、邪心をかなぐり捨てる時、わたしたちの裡に神さまの祝福が満ち、平安が支配する処となるのです。
 大斎節が始まりました。私たちが神さまに近づこうとする時、悪魔の囁きは一層頻繁になります。「この十字架が目に入らぬか!」と十字架をしっかり握りしめ対峙する時、悪魔に打ち勝つことが出来るでしょう。励まし合って大斎節を励み悪魔に打ち勝ちましょう。 












大斎節 第2主日 2014年3月16日
ヨハネによる福音書 第3章1−17節
「一人も滅びず、永遠の命を得るため。」
 「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」人目を避けて夜そっと主イエスさまを尋ねたニコデモに対して唐突に宣言されました。驚いたニコデモは「年を取った者がどうして新たに生まれるなどと言うことが出来るでしょうか。」と答えました。
 11日は東日本大震災とそれによっておこった東京電力福島第一原発事故の3周年の日でした。3周年を「3年目」と言う言い方に違和感を覚えますが、それ以上に原発再稼働に世の中が傾いて行くことに危うさを感じます。どれほど経済的に潤う社会が実現したとしてもひとたび原発事故が起こるならそれらは根底から覆されてしまうからです。今回の原発の地元のように。
 生き方を根底のところで変えないならば、どれほどの繁栄を手にしたところでそれは砂上の楼閣に等しいものです。原発を巡る議論も根底から覆されることのない確固とした基盤に立つことを出発点におかないならば実に空しいものであると言えないでしょうか。
 今まで盤石と思っていた繁栄(人生)をないものとして新しい生き方に移らないならば、神の国に入ること(本当の繁栄・人生を手に入れること)はできない、と主イエスさまは教えて居られるのではないでしょうか。主イエスさまは私たちに大転換を迫っておられるのです。私たちが一人も滅びず、永遠の命を得るために……


























大斎節 第3主日 2014年3月23日
ヨハネによる福音書 第4章5−26節、39−42節
「メシアが来られる時…わたしたちに一切が知らされる。」
 なにごとであれ、「説明がつく」のでなければ受け入れられない、これが現代のじょうしきであるといえましょう。こういう現代に生きる私たちにとって「理解できなければ神さまだって信じるわけにはいかない。」これは一見説得力があるように聞こえます。

































































大斎節 第4主日 2014年3月30日
ヨハネによる福音書 第9章1−13節、28−38節
「まだ日のあるうちに」
 不思議の国のアリスに出てくるウサギは「時間がない、時間がない」と叫んで穴の中に飛び込んでいきます。都会に行くと誰もが足早に「時間がない、時間がない」とばかりに通り抜けるように歩いています。ところで、「時刻」と「時間」、わたしたちは普段あまり厳密に区別しないで用いています。でも、ここには大変大きな違いがあります。
 時刻は「コチ、コチ」音を立てて刻み続ける秒針の音と共に新しく時を更新していきます。それはある意味でわたしたちの生きていることとは関係が無いかのように更新されていきます。けれども、私たちの「自分の時」は決して取り返すことのできないもので、ずっと刻み続ける時計の針が生み出すようなものではありません。
 主イエスさまはご自分に与えられた時間を強く意識しておられました。あるときには「まだその時ではない」と言われ、またある時には残された時間のあまりないことを強調しておられます。
 さて、わたしたちは今、どうあるべきなのでしょうか。私たちはいつも「まだ」と「すでに」の間で生きていなければなりません。「もう」残された時間はそれほどない、と「まだ」悔い改める時間が許されていると言うふたつの緊張に挟まれた者なのです。














































復活前主日(棕櫚の日曜日) 2014年4月13日
マタイによる福音書 第27章1−54節
「棕櫚」 「オリーブ」 「上着」 「ろば」
 人々はイエスさまを棕櫚やオリーブの若枝を中には自分の上着を道に敷いて歓迎しました。
 エルサレムは私たちの感覚からすれば都市と言うよりも城塞に近い様相を呈しています。そのような町で人々は棕櫚やオリーブの若枝をどこから調達してきたのでしょうか。城壁(町)の外からでしょうか。それともすでに別の目的で手元にあったのでしょうか。いづれにしても、柔らかい若枝や上着を道に敷くと言う行為は王をお迎えするやり方であったと言われます。さらに、この王として迎えられた主イエスさまは「ろば」に乗って入城しておられます。これは平和を実現された勝利の王の凱旋を意味しています。
 主イエスさまをお迎えすると言うことは、平和を実現される王なるキリストを迎え入れると言うことであり、人類にとってこの上ない喜びの出来事であるということを聖書は証言しているのです。そして私たちはこの喜びに与るべく召されているのです

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー参考ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
参考
「エルサレムに迎えられる」
マルコによる福音書11章1〜11節
マタイによる福音書 第21章1−11節
ルカによる福音書 19章28−44節

ここはイエス様がエルサレムに子ろばに乗って入って行かれることが書かれてありま すので、いわゆる受難週、キリストが十字架にかけられて殺されるその週の日曜日のこ とになります。イエス様は金曜日に十字架にかかって死にますが、その5日前の日曜日の出来事です。 受難週の最初の日曜日はイエス様がエルサレムに驢馬に乗って入城されることを記念する「棕櫚の日曜日」といいます。 主イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城したことを記念する棕櫚(しゅろ)の主日、 パームサンデーです。 主イエス様が十字架にかかるためにエルサレムに来られた際、人々が棕櫚、 すなわちなつめやしとよばれる木の枝葉を打ち振り、着ていた服をその道にしいて、主イエス様を迎えたのです。 今日から受難節の、最後の一週間が始まります。 ユダヤでは「過越しの祭り」(ユダヤ教の三大祭の一つ)のため、大勢の人々がエルサレムに集まっていました。 イエス様が来られると聞き、群衆が「しゅろの枝を手にとり、町の門まで出迎えに集まり、口々に「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫び続けたことがヨハネ福音書に記されています。 ■受難週 エルサレム入城後、イエス様はユダヤ教の指導者達から遣わされた人々によって捕えられ、ユダヤの最高議会で裁かれて死刑が宣告され、更に、ローマ帝国からの許可をとるためユダヤ総督ピラトのもとに送られ、死刑が確定し、わずか6日後の金曜日に十字架刑で殺されました。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




























































































































strong>復活節 第3主日 2014年5月4日
ルカによる音書 第24章13−35節
「エマオへの道」
 ご復活の日の夕刻、主イエスさまが捉えられ十字架につけられた結末に失望した二人の弟子は故郷のガリラヤへ戻ろうと暗い表情で歩を進めていました。エルサレムから10キロほど行ったあたりから一人の男が道連れになりました。二人の弟子はこれまでの主イエスさまのなさったこと、話されたことをあれこれ話していたのです。この二人に「その話はなんのことか」と主イエスは問いかけられました。弟子たちは答える形で今までの一切を総括していました。  「ああ、物分かりが悪く…」主イエスは弟子たちをもう一度初めから教えられたのです。しかし、それでも彼らの目は遮られていて語られるお方を主イエスと認めることはできませんでした。  彼らの目が開かれたのは主イエスがパンを裂き、彼らに分け与えられてからでした。主イエスさまはそれ以来ずっと、聖餐式においてパンと葡萄酒を分け与えことを通してご復活のご自身を私たちに示し、永遠の命に導いておられることを示し続けておられるのです。













































復活節 第4主日 2014年5月11日
ヨハネによる音書 第10章1−10節
「ど近眼の羊?」
 羊、と言うと「従順」の代名詞のように言われます。それって本当でしょうか。主イエスさまはご自身を羊飼い、弟子たちを初め、従う人々を羊に例えられました。でも、それは本当に羊飼いと従順な羊と言う関係なのでしょうか。時には我儘な羊、或いは羊飼いに噛みつくような羊をも想定して居られたのではないでしょうか。  今日の教会を見ても「成程」と思わされはしませんか。勝手に囲いから飛び出して行ったり、梃子でも動こうとしない羊が居たり、ときには羊飼いに噛みつく羊だっていますよね。  主イエスさまはそれらすべての羊をご自分の羊である、と言われたのです。「まったくー」と言われるかどうかわかりませんが、駄々っ子をやさしく見守る親のように、「手を焼くやつだ」と言いつつも「それだって自分の群れの羊なのだ」と仰って下さるのです。  羊は大変な近眼なので羊飼いや列の前の羊の御尻にくっ付くようにしていないと迷子になるので従順のように見えるだけかもしれません。  が、主イエスさまはどんな羊をもご自分の群れのものとして慈しみ守り、永遠の命へと導かれようとしておられるのです。群れから飛び出したと思っても、それはその羊がそう思うだけでみ守りの裡からは決して外れはしないのです。どこまでも御手の中にあるのです。残念?ですか








緑横線

聖書02

マタイによる福音書
第2章13−15、19ー23節節

エジプトに避難する
 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

エジプトから帰国する
 ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。




マタイによる福音書 3 章 13-17 節

イエス、洗礼を受ける
 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

ヨハネによる福音書 1 章 29-41 節

神の小羊
 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

最初の弟子たち
 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。

マタイによる福音書
第4章12−23節

ガリラヤで伝道を始める
 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。四人の漁師を弟子にするイエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。おびただしい病人をいやすイエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。

マタイによる福音書
第5章1−12節

山上の説教を始める
 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。 幸い「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

マタイによる福音書
第5章13−20節

地の塩、世の光
 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」律法について「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

マタイによる福音書
第5章
21−24,27−30、33−37

腹を立ててはならない
 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。2 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。

姦淫してはならない
 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」

誓ってはならない
 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

マタイによる福音書
第5章38−48節

復讐してはならない
 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」敵を愛しなさい「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

マタイによる福音書 第17章1−9節

イエスの姿が変わる
 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

マタイによる福音書
第4章1−11節

誘惑を受ける
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

ヨハネによる福音書
第3章1−17節

イエスとニコデモ
 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

ヨハネによる福音書
第4章5−26節、39−42節

 それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

  さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

ヨハネによる福音書
第9章1−13節、28−38節

生まれつきの盲人をいやす
 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。ファリサイ派の人々、事情を調べる人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。

マタイによる福音書
第27章1−54節

 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。 27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
参考
「エルサレムに迎えられる」
マタイによる福音書 第21章1−11節
 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、/柔和な方で、ろばに乗り、/荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。
以下にも同等記述有り
●ルカによる福音書 19章28−44節
●マルコによる福音書11章1〜11節

ルカによる音書
第24章13−35節

 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

ヨハネによる音書 第10章1−10節

 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」 イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。 イエスは良い羊飼い10:7 イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。