チャプレン ヨナ 成成鍾 司祭
「 三つのエルサレム 」
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わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。
(ルカ13:33)
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「 三つのエルサレム 」
私はエルサレムというと、政治哲学者ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906-1975)の『エルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil)』という本を思い出します。これは、人類史に残る犯罪であるナチス・ドイツのホロコーストを指揮したアドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann、1906 -1962)の裁判記録です。本を通してアーレントは、アイヒマンは極悪人のイメージとはかけ離れた平凡で気弱そうな男だったと述べ、人間の中に姿を隠している悪の陳腐さ、また全体主義の怖さについて指摘しました。アイヒマンは、人間が持っている悪に傾く傾向やそれを妥協してしまう弱さを究極的に表した人物だと言えますが、それは決して他人事ではありません。そのことは、アイヒマンの裁判が行われた場所で、聖書の舞台であるエルサレムを通しても知ることができます。聖書からは三つのパターンのエルサレムを読み取ることができます。今を生きている私たちを中心に過去、現在、未来のエルサレムがそれです。
先ず過去のエルサレムは、聖書の舞台として神様のみ業が繰り広げられ、キリストのそのみ業が完成されたところです。つまり、キリストが受難を受け、十字架上で亡くなり、復活されたところであって、まさにそこでキリストの教会が始まりました。過去のエルサレムは、今日の福音書を通してキリストが「私は今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬ事は、ありえないからだ。」(33節)と語りながら神様の道を歩まれたところとして、恥辱と栄光、受難と喜び、死と命が共存し、最終的に神様がキリストを通して愛を完成されたところなのです。過去のエルサレムは今日の私たちの信仰の基となっています。
未来のエルサレムは、私たちが死んでから行くところであって、私たちが一人も欠けることなく無事にたどり着くことを待っているところでもあります。未来のエルサレムは、福音書に記されているようにキリストが私たちのために約束なさった神様の聖なる都です。全てのものが新しくなる、「新しい天と新しい地」(ヨハネの黙示録21:1‐11)であって、そうであるからこそ私たちの希望でもあるわけです。その聖なる都を成し遂げることができますように、またその都に後ではなくて先に入ることのできる私たち皆になりますように祈ります。
現在のエルサレムは、地理的に中東地方にあるエルサレムではなく、私たちの霊的な都、信仰の都の象徴としてのエルサレムとして教会共同体のことを意味します。それゆえ教会そのものである私たちひとり一人が、神様の愛が完成された過去のエルサレムと天の都である未来のエルサレムを繋ぐ、現在のエルサレムなのです。自分自身の中でこそ、過去のエルサレムの救いの歴史が再現されて、未来のエルサレムが準備されるからです。ではいかがでしょうか、現在のエルサレムとして自分自身の心の状態はどのようになっているのでしょうか。もしかしたら、キリストが「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺すものよ。」(34節)と語られたように、今も私たちの中にはキリストへの背信が行われているのではないでしょうか。仮にそうだとしても、キリストはその悪に傾きやすい弱い存在である私たちから離れることなく、むしろそのような私たちを通して、私たちの中で救いの御業を成就され、未来のエルサレムに導かれます。今現在の私たちにこそ新しい未来の天と地が約束されているからです。
確かに悪の陳腐さは私たちの中にも潜んでいる隠すことのできない弱さです。しかし私たちの中には、悪だけではなく善の要素も与えられています。そしてその善には神様によって絶えず新しくアップデートされる可能性が蒔かれているのです。だからこそ私たちは御業が成就される霊的なエルサレムだと言えるのです。自分がキリストと共に生きる霊的なエルサレムであることを黙想しながら、キリストによる恵みを以て大斎節の日々を生きられる皆さんでありますように願います。
<福音書> ルカによる福音書 13章31~35節
31ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」 32イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。 33だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。 34エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。 35見よ、お前たちの家は見捨てられる。言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、決してわたしを見ることがない。」