聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2025年2月16日(顕現後第6主日)(2025/02/20)

チャプレン ヨナ 成成鍾 司祭
「 可能性 」(ルカ6:17-26)

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今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。

(ルカ6:21)

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「 可能性 」

18世紀の英国の詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake、1757-1827)は「無垢の予兆(Auguries of Innocence)」という詩の冒頭でこう詠いました。“砂粒の中に宇宙を見て、野の花の中に天国を見る。手のひらに無限を握って、ひとときの間に永遠を計る。”これの解釈はいろいろあると思いますが、その一つは、神様によって人間に与えられた可能性がどれほど大きくて素晴らしいのかについて詠われた、ということです。人間に与えられている可能性は時空を超えて神様にまでも繋がっているため神秘の領域だと言えますが、まさに聖路加コミュニティに連なっている一人ひとりはそれを味わい楽しむために呼ばれている存在です。その可能性という視点から今日の福音書を読み解くことができます。

今日の福音書は、キリストがどのような人が幸いなのかを不幸な人と相対的に比較して語られた説教の一部です。広く知られている「山上の説教(山上の垂訓)」(マタイ福音書5:1‐12)がありますが、これはほぼ同じ内容の話を平地で行ったということで「平地の説教」と言います。ところが、両方とも常識的には受け入れ難い内容になっています。キリストは逆説的にも、現実的には不幸に見える人を幸いな人だと、幸いに見える人を不幸な人だと語られました。聖書の中でもダントツに謎に包まれた箇所ですが、私はこの謎を研ぐための鍵を可能性という言葉から見つけられると思います。キリストが言う幸いな人は、今から良くなる可能性だけを持っている、つまり満たされる可能性、笑う可能性、癒される可能性を持っているから幸いだということです。その反面、不幸な人はすでに持っているから、それ以上良くなる可能性がない人のことを指します。もし彼らに可能性があるとしたら持っているものが無くなる可能性、今の立場から落ちる可能性だけがあるから不幸だということになるのです。例えば、地面に落ちるボールが上の方へと跳ね上がってはまた落ちる様子を想像してみますと、少しは理解に助けになると思います。地面にまで落ちたものは跳ね上がり、天辺にまで上がりきったらまた落ちるのです。

幸いと不幸の違いは、可視的で現実的なことだけがその判断基準になるのではなく、未来においてどのような可能性を抱いているか、ということにあります。今、何を持っているのか、どのような条件のもとにいるのかではなく、今から先どうなれるのかの違いなのです。そのようにキリストは今の私たちの状況を未来に映しながら語られました。たとえ今は貧しくてもいずれ神の国を得る可能性を、今は飢えているけれどいずれ満たされる可能性を、今は泣いているけれどいずれ笑える可能性を、今は困難の中にあるけれどいずれ神様からの大きな報いをいただく可能性があると、今日もキリストは語られているのです。そのようにキリストは、私たちはすでに未来に良くなる可能性を持っていると、いや私たち自身が可能性そのものだ、と教えてくれているのです。

そのような私たち一人ひとりによって聖路加コミュニティは成り立ちます。聖路加コミュニティは、単純な組織ではありません。神様の愛を生きる有機体として聖路加コミュニティは、現在に足を置いて頭は未来に向けている鳥に喩えられます。現在だけではなくて、今のこの瞬間にも可能性を抱いて未来を生きている生き物なのです。今現在にきちんと足を置いて未来に向けて生きている、可能性そのものである私たち一人ひとりによって支えられているからです。それゆえ皆さん、絶えず未来の希望を描いてください。ウィリアム・ブレイクが詠ったように、一人ひとりに神様から与えられていて内在されている可能性を探り出して、生活の場や仕事の場で具現していてください。それを通して聖路加コミュニティは成長していきます。もし私たちが未来を描きながら潜在されている可能性を探り、それを具現していかなければ、いずれ聖路加コミュニティは存続しなくなるかもしれません。神様から頂いたあらゆる可能性に満ち溢れる聖路加コミュニティでありますように願います。



<福音書> ルカによる福音書 6章17~26節

17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、 18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。 19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

20さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は、幸いである、
神の国はあなたがたのものである。
21今飢えている人々は、幸いである、
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである、
あなたがたは笑うようになる。
22人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 23その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
あなたがたはもう慰めを受けている。
25今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、
あなたがたは飢えるようになる。
今笑っている人々は、不幸である、
あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」


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