チャプレン ヨナ 成成鍾 司祭
「 珈琲 」(ルカ3:15-16、21‐22)
===
「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」
(ルカ3:16)
===
「 珈琲 」
水は生物の生存と維持に不可欠なものであるため、文化や宗教と深くつながっています。特に農耕社会である日本の場合、神話や神道に水の神々が多く登場し、お茶やお酒の文化が発達していることもその一環として理解することができます。また、仏教では綺麗な水は汚れを除き、病を癒すものとして尊ばれてきましたし、キリスト教では聖別された水でものや空間を浄め、人は水で洗礼を受けることを通して新しく生まれ変わる、という理解を持っています。
さて、キリスト教の歴史の中には、人でもない「もの」が洗礼を受けたという逸話があります。「もの」が洗礼を受けたのはそれが唯一の例かもしれません。その正体は世界中の多くの人に愛されている珈琲です。珈琲は元々イスラム教徒が愛用していた飲み物だったので、キリスト教文化圏のヨーロッパに伝わった初期頃には悪魔の飲料と呼ばれていました。イタリアの人たちは1605年に教皇クレメンス8世に人々が珈琲を飲むことを禁じる判決を下すよう嘆願しました。ところが判決のために珈琲を飲んでみた教皇は“この素晴らしい飲み物を異邦人だけのものにするのは本当に残念なことである。これからは、キリスト教の飲み物になって、悪魔の鼻っ柱をへし折るために、これに洗礼を授ける。”という判決を下しました。それで今日の私たちも珈琲を楽しむことができるようになり、一日に珈琲を何杯も飲む私は、毎日教皇クレメンス8世に感謝しています。
これは珈琲に因んだ逸話ですが、洗礼がどれほど重みのある営みなのかについての理解も伝えてくれます。キリスト者になる道は、先ず洗礼を受けることから始まります。そして教会は洗礼の恵みを再確認することができるように幾つかの仕組みを伝統的に設けています。その一つは聖堂の入り口の方に洗礼盤を置いておくということです。聖堂に入ったとき、先ず洗礼盤に向かい合うことを通して、自分が受けた洗礼のことを思い出すためです。古い自分は死んで新しい自分として生まれ変わった洗礼という聖なる時間を思い起こすということです。さらに、自分にとって毎週の礼拝が新しく生まれ変わる再生の儀式であることを悟らせるためでもあります。洗礼盤の中にある聖水を指につけて十字を切ることを通して、心を神様だけに集中できるように導かれます。礼拝は最初に歌う入堂聖歌で始まるものではありません。聖堂に入り、聖水で十字を切ってお祈りを献げる瞬間から自分の礼拝、つまり神様との交わりは始まります。神様との交わりが十分あるからこそ、信徒同士の交わりにも意義が生まれます。このように教会は、伝統的に洗礼盤を聖堂の入り口の方に置いて、洗礼のことを思い出し、心を新たにして、改めて恵みに与ることができるように導いたのです。
洗礼を通して注がれた恵みは、過去だけのものではありません。その恵みは今も続いています。新しい年を迎え、何かを改めてスタートしたいならば、より新しくなりたいのならば、ご自分の洗礼のことを思い起こしてみてください。そして、キリスト者ではない方は、洗礼の恵みに与ってみるのはいかがでしょうか。洗礼は、神様に力をいただきながら、同伴者である神様と一緒に生きていきたい、という気持ちがあれば今すぐにでも受けられる恵みなのです。キリストにもそうであったように、私たちにとっても洗礼こそが全てにおいてスタート地点です。
<福音書>ルカによる福音書3:15-16、21‐22
15民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。 16そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
21民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、 22聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。