チャプレン ヨナ 成成鍾 司祭
「 二人の母 」(ルカ1:39-45)
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「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
(ルカ1:45)
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「 二人の母 」
英語で病院を意味する「ホスピタル(Hospital)」、終末期を過ごす患者をケアする施設やサービスを意味する「ホスピス(Hospice)」、また人々を心からもてなすことを意味する「ホスピタリティ(hospitality)」、これらの言葉の語源はラテン語のホスペス(hospes)です。ホスペスには、主人を意味するホスト(host)と客を意味するゲスト(guest)という二つの意味が込められています。これに準じますと、命に関わるこれらの営みは、する側とされる側という両者間の区分がなくなることで成り立つ、ということが分かります。つまり、一方的ではなく双方向的な関係によって、両者の間に愛に溢れる聖なる空間を整え、共に聖なる時間を過ごす営みだと言えます。聖書の中にはそれを表している物語がいくつもありますが、今日の福音書の主人公である二人の女性、エリサベトとマリアの出会いは代表的な例です。
「マイクロ・アグレッション(micro aggression)」という言葉があります。日本語に訳せば「小さな攻撃性」となりますが、日常生活のなかに隠された無意識的な偏見や差別によって誰かを傷つけることを指します。昔も今も多くの女性はマイクロ・アグレッションに悩まされていますが、エリザベトとマリアもその一人でした。エリサベトは、不妊の女性として長年、目に見えない偏見と差別のなかで悲しい人生を送っていました。ところが、誰もが子どもは産めないと思う年齢にヨハネを授かりました。計り知れない神様の計画がエリサベトにあったのです。神様の恵みによってエリサベトの長年の悲しみは喜びに変わり、骨まで染み込んでいた侮辱感は祝福に変わりました。そのエリサベトがヨハネを懐妊して6ヶ月になったある日、キリストを懐妊すると天使から告示されたマリアがエリサベトを訪ねてきました。信仰深い乙女マリアにとってキリストを懐妊することは光栄なことだったに間違いありません。しかし他の人たちにとっては、未婚の女性の懐妊は、それよりやましいことはなかったはずです。それゆえ、喜びと同時に強い不安を感じていたマリアは、自分と同じように奇跡を通して子どもを授かったエリサベトの所に急いで訪ねていったのです。エリサベトの悲しみと不安が奇跡を通して喜びと祝福に変わったことを知っていたからです。
マリアが訪ねてきたとき、エリサベトは胎内の子が喜んで躍るほど(41節)歓迎しました。キリストの母であるマリアが訪ねてきたからですが、それだけではなくエリサベトは、喜びと不安の相反する感情を同時に持つアンビバレンス(ambivalence)な状態にいるマリアのことを誰よりも理解していたからです。エリサベトにとってマリアは自分と別々の存在ではない、つまり無意識的な偏見や差別という闇を経験し、また神様の導きによってその闇が光へと変わる恵みに与っている存在同士の強い連帯感があったと推察できます。そのようにキリストを懐妊していたマリアを歓迎したエリサベトは、マリアだけではなくキリストをも、人類で誰よりも早い段階で迎え入れる恵みに与り、またマリアは、エリサベトのホスピタリティに溢れた助けと祝福の中でつわりが終わるまでの3ヶ月間を一緒に過ごしました。二人の母によって聖なる空間が整えられ、身ごもっていた二人の子どもにとってもそこでの3ヵ月は愛に溢れた聖なる時間だったと思います。
聖書の中で最も美しいとも言える二人の母の出会いは、これから繰り広げられる二人の子どもの関係について暗示してくれます。アドベントは私たち自身が洗礼者ヨハネになってキリストを迎え入れるために準備する期間であり、またそれに先立ってヨハネの母エリサベトになってマリアを迎え入れる期間でもあります。洗礼者ヨハネなしのキリストが考えられないように、エリサベトなしのマリアも考えられません。二人の母と二人の子どもの懐妊は、決して別々に起きた出来事ではなかったのです。クリスマスを通して来られるキリストを迎えるために過ごしている今のアドベントの期間、エリサベトとマリアが共に過ごした3ヵ月という聖なる時間について想像し黙想しながら、自分の中にも愛に溢れる聖なる空間を整えていきましょう。すべての命の営みは、何よりまず自分の中から始まるからです。
<福音書> ルカによる福音書 1章39~45節
そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」