チャプレン ヨナ 成成鍾 司祭
「 苦難の洗礼 」(マルコ10:35-45)
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「このわたしが飲む杯を飲み、
このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
(マルコ 10:38)
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「 苦難の洗礼 」
赤ちゃんは産まれる前、母親の子宮という闇の中に留まらなくてはなりません。そして闇から光に向かって出てくる出産は、まさに試練の過程そのものです。出産のときに母親が体験する苦しみを陣痛と言いますが、実は出産の苦しみは母親だけのものではないようです。生まれてくる赤ちゃんも苦しむという見解があります。母親の細い産道を通る際、赤ちゃんは4枚に分かれている自分の頭蓋骨を重ね合わせ、頭を細長く変形させて出てきます。痛みをどれほど感じるのかは明確にされていませんが、強いストレスを感じることは推察できます。医学的にはそのストレスが赤ちゃんの呼吸機能の成熟に必須要件になるようです。出産の際、母子ともに感じる苦しみがなぜあるのかは知られざる神秘の領域ですが、それこそが命を世に送り出し、また育むために欠かせない過程であるのです。洗礼もそのような観点で理解することができます。
キリスト教の聖なる営みである洗礼は、新しいものとして生まれ変わることを象徴します。お風呂や温泉に入ると疲れた体が生き返ったような気持ちになりますが、洗礼もそのような感覚で理解することができます。そのような洗礼と言えば、水による洗礼のことが思い浮かぶと思いますが、実は、洗礼はそれだけではありません。福音書には三つの洗礼、つまり「水の洗礼」、「火と聖霊の洗礼」(ルカ3:16)、そして「苦難の洗礼」のことが記されています。苦難の洗礼は、今日の福音書でキリストが弟子たちに「あなたがたは … この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか。」(38節)と語られたことから由来します。ここでキリストが飲む杯とは死の杯であり、洗礼は苦難の洗礼のことを指します。元々洗礼はユダヤ教の清め儀式でしたが、キリスト教では聖霊を通して新しく生まれ変わる儀式へと変化しました。聖霊は苦難や試練を通しても働いて私たちを清めてくださいます。それでキリストはそれを洗礼と表現し、弟子たちにもご自身が受けるようになる苦難を受けることができるのかと問われたわけです。この「苦難の洗礼」とは、今日の私たちにとっても人生の中で受ける苦難や試練などが新しく生まれ変わる洗礼の役割を果たす、という意味として受け止めることができます。
家庭菜園などで野菜や果物を育てたことのある人はご存じだと思いますが、みかんのような果物やズッキーニのような野菜の実は、実る場所が決まっています。美しい花が落ちた後、まさにそこに実ができて少しずつ大きくなっていきます。私たちの人生にも同じことが言えます。喜びや幸福という花、期待や自慢という花が萎れた後、心が痛くてもその花が消えた所に、いつのまにか小さい実ができて少しずつ育つのです。それこそ宇宙に満ち溢れている命の原理であり、私たちには誰にでも平等に与えられた人生の法則なのです。この世には、光だけでも闇だけでもなく、光と闇は共存しながら互いに支えあうのです。仮に出産の苦しみが洗礼のような営みだとしますと、人は誰もが闇からの出産という苦難の洗礼を受けることを通して世の光の中に生まれ、また人生の旅路の中で遭遇する苦難を通して、新たに生まれ変わる恵みを受けるようになるのです。
<聖書>マルコによる福音書 10:35~45
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」