チャプレン ヨナ 成成鍾司祭
「 永遠なる命 」(マルコ9:38~43、45、47~48)
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「わたしを信じるこれらの小さな者の
一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、
海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
(マルコ9:42)
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「 永遠なる命 」
アメリカの詩人、ウィリアム・スタフォード(William Stafford、1914-1993)の「生きることとは(The Way It Is)」という詩があります。「あなたが従っている一筋の糸がある。その糸は、変わっていくものの間を貫く。しかし、その糸は変わらない。あなたが何に従って歩んでいるのか、人々は知りたがる。あなたは、その糸のことについて説明しなくてはならない。しかし、人々がそれを見るのは難しい。その糸を握り締めている間、あなたは道に迷うことはない。悲劇的なことが起こり、人々は傷つけられ、また死んで行く。そしてあなたも悩み苦しまれ、年老いて行く。時間が作り上げていくことを、あなたはどうにも止めることはできない。そうであるにも拘わらず、あなたは決して糸を放してはならない。」 私たちには一筋の糸が与えられています。その糸について、うまく説明できる人もできない人もいますが、誰の手にも握られています。中には残念ながらそれに気づいていない人もいますが、その糸は変わらない価値なので決して放してはなりません。この世においてはその糸について様々な呼び方がありますが、キリスト教ではそれを「永遠なる命」というふうに表現することがあります。
キリスト教には特別な人間観や人生観があります。その一つは、人間の命というのは、この世での一回切りの人生だけではないということです。つまり、この世の命は永遠なる命につながる、という理解があるのです。この世の命が大切である理由は、神の国でも続く永遠なる命のための準備期間であるからです。永遠なる命というのは、慈善活動や神学的な知識の蓄積で獲得できるものでも、教会に通い洗礼や堅信を受けることで、或いは聖職につくことで頂けるものでもありません。神様を信じて洗礼を受けたら救われるのだから永遠なる命も自動的に手に入ると思われがちですが、実はそうではありません。永遠なる命は一回の洗礼を通して頂けるものでも、定期的に教会に通い礼拝を捧げることを通して得られるものでもないのです。そうであるならばどのようにすれば永遠の命、つまり今日の福音書を通して「キリストが目や手足を切り捨てて全てを放棄することがあっても獲得しなくてはならない」(43‐48参考)と教えられた永遠なる命を頂くことができるのでしょうか。
喩えを用いて考えますと、それはプラモデルの模型を組み立てていく過程に似ています。私たちは神様を信じ洗礼を受けることを通して、永遠なる命という組み立て式の模型をプレセントとして頂きます。しかし、その模型を頂いただけで、永遠なる命が自分のものになったとは言えません。永遠なる命の実現のためには、先ず永遠なる命という模型が入っている箱を開け、時間をかけながら説明書を読んで、工夫を重ねながら模型を組み立てて行かなくてはなりません。そのように組み立てる過程が私たちに与えられた課題であり、救いの道なのです。永遠なる命のために、神様の前で自分という存在の箱を開いて、聖書のみ言葉に心を留めながら自己を省察し、また神様の愛と真理の中で自分を整えていく過程が求められるのです。
私たちには永遠なる命が約束され、今の人生はそのための準備過程だと言えます。つまり、この世での人生とは、すでに蒔かれている永遠なる命という種に水をやりながら丁寧に育てていく過程、プレゼントとして頂いた永遠なる命という模型を組み立てながら、完成を準備する過程なのです。それゆえ、どんなことがあろうとも、すでに手に握っている一筋の糸、永遠に続く命を決して手放すことのない皆さんでありますようにお祈りいたします。
<福音書> マルコによる福音書 9章38~43, 45, 47~48節
ヨハネがイエスに言った。
「先生、お名前を使って悪霊を
追い出している者を見ましたが、
わたしたちに従わないので、
やめさせようとしました。」
イエスは言われた。
「やめさせてはならない。
わたしの名を使って奇跡を行い、
そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
わたしたちに逆らわない者は、
わたしたちの味方なのである。
はっきり言っておく。
キリストの弟子だという理由で、
あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、
必ずその報いを受ける。」
「わたしを信じるこれらの小さな者の
一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、
海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、
切り捨ててしまいなさい。
両手がそろったまま
地獄の消えない火の中に落ちるよりは、
片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、
切り捨ててしまいなさい。
両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、
片足になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、
えぐり出しなさい。
両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、
一つの目になっても神の国に入る方がよい。
地獄では蛆が尽きることも、
火が消えることもない。