聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2024年6月2日 聖霊降臨後第2主日(2024/06/05)

チャプレン ヨナ 成成鍾司祭
「 疑いの解釈 」(マルコ2:23~28)



<マルコ2:23-28>

ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、
弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。

ファリサイ派の人々がイエスに、
「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。

イエスは言われた。

「ダビデが、自分も供の者たちも、
食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、
一度も読んだことがないのか。

アビアタルが大祭司であったとき、
ダビデは神の家に入り、
祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、
一緒にいた者たちにも与えたではないか。」

そして更に言われた。

「安息日は、人のために定められた。
人が安息日のためにあるのではない。
だから、人の子は安息日の主でもある。」





<メッセージ>

 昔、ある有名なグル(師)が教えている寺院がありました。その寺院で礼拝の時間になりますといつも一匹の野良猫が入ってきては参列者たちを邪魔しました。それに悩まされたグルは、礼拝の時間だけは猫の首に紐をつけて柱に繋いでおくことにしました。時間が経ちグルは死んでしまいましたが、猫は変わらず礼拝の時間には柱に繋いでいました。さらに時間が経ちその猫も死んでしまいました。ところが、その猫が死んだ後、グルの弟子たちは別の猫を寺院に連れてきて礼拝の間に柱につないでおきました。いつの間にか猫は礼拝にはなくてはならない存在になってしまったのです。それから数世紀が経ち、グルの弟子の弟子たちは『礼拝における猫の必要性について』という論文まで発表するようになりました。

 社会には規則など沢山の決まりがあります。明文化されたものであろうが暗黙的なものであろうが、人間は決まりの中で生きていると言っても過言ではありません。ところが、そういう決まりには寺院の猫のように意図や目的が変わってしまう可能性が十分あります。それゆえ、いつも疑いの目を以て、今の状況に合っているかどうかを識別し続けることが求められます。哲学では解釈学という分野があり、その一つに「疑いの解釈(Hermeneutics of Suspicion)」というものがあります。思想や出来事の裏には、何かしら明らかになっていない偽装された意味があると想定し、その実態を明らかにしようとする理論的な試みのことを「疑いの解釈」と言います。いわば寺院の猫のようなものが潜んでいることを見つけ出そうとする試みなのです。

 真理を求める旅路においては、信じる心を以って行う「信頼の解釈(Hermeneutic of Belief)」も大事ですが、その信仰をさらに深めるためには「疑いの解釈」が求められます。私たちには、いつの間にか意味も求めなくなり価値も分からなくなっているけれども、寺院の猫のようにただ大事にされているものが顔を隠して潜んでいますし、はなはだしくはそれが絶対化され、それを以って他者を裁いてしまうことがしばしば起こっているからです。それゆえ、ただ単に決まりだから守るのではなく、それが真理に基づいているかどうかを絶えず疑いの目で見て識別することが求められます。今日の福音書でキリストは「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(27節)と語られたこともその一環だと言えます。

 ユダヤ教には613(禁令365個と命令248個)の掟があり、その中に安息日に関するものがありますが、例えば安息日にはパンを焼かない、二つの文字以上は書かない、物を別の場所へと動かさない、500メートル以上は歩かないなどがあげられます。当然これらのことを守るには色々な不便が伴います。するとそもそも安息日とは何のためにあるのか、その目的と今の守り方にはずれが生じているのではないかということを考えてしまいます。ではいかがでしょうか。自分の中にある決まりは、また自分が属している組織や共同体にある決まりは、今どのようになっているのでしょうか。



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