聖路加国際大学 聖ルカ礼拝堂

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2024年5月26日 三位一体主日(2024/05/28)

チャプレン ヨナ 成成鍾司祭
「 暗黙知 」(ヨハネ3:1~16)

<ヨハネ3:1~16>


さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。

ユダヤ人たちの議員であった。

ある夜、イエスのもとに来て言った。

「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」

イエスは答えて言われた。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」

ニコデモは言った。

「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。
もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」

イエスはお答えになった。

「はっきり言っておく。
だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。

肉から生まれたものは肉である。
霊から生まれたものは霊である。

『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。

風は思いのままに吹く。

あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。

霊から生まれた者も皆そのとおりである。」

するとニコデモは、
「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。

イエスは答えて言われた。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、
こんなことが分からないのか。

はっきり言っておく。

わたしたちは知っていることを語り、
見たことを証ししているのに、
あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。

わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、
天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。

天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、
天に上った者はだれもいない。

そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、
人の子も上げられねばならない。

それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。



<メッセージ>

今週の福音書は、イエス・キリストとニコデモという宗教指導者との対話について伝えています。キリストがニコデモに対して「人は新たに生まれなければならない …水と聖霊によって生まれなければ神の国に入ることはできない。」(3節)という少しややこしいことを語られますと、ニコデモは呆れたかのように「年を取った者が、どうして生まれることが出来るのでしょうか。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるのでしょうか。」(4節)と言い返しました。二人の対話は、表面的には言葉が交わされていますが、中身的には対話が成立されているとは言えない状態です。一人(キリスト)は30歳ぐらいの若い人であって、一人(ニコデモ)はお年を召された宗教的な専門家だったにも拘らず、両者間の知的や霊的なレベルの違いによって話が通じ合わなかったわけです。広い意味で知識の次元が違ったからだと言ってもいいかもしれません。

人間が持つ知識にはいろいろなものがありますが、ハンガリーの化学者で哲学者のマイケル・ポランニー(Michael Polanyi;1891-1976)は、自身の経験から“我々人間は、言葉にて語り得るよりも多くのことを知っている。”とひらめき、そこから「暗黙知」という概念を生み出しました。そして人間の知識を大きく「暗黙知(Tacit knowledge)」と「形式知(Explicit knowledge)」に分類しました。簡単に言いますと形式知とは明確な数値やデータで言語化することができる客観的で理性的な知識のことを意味します。そして、暗黙知とは、言語化することができない主観的で個人的な知識のことを意味します。主に体験による直接的な経験や勘に基づく知識であるため「経験知(experiential knowledge)」とも言います。人に説明しがたいが体に染み込んでいる知識として、時間を掛けて培われた巧みの熟練の技や誰もが持っている自分だけのノウハウ、また個人の信念や世界観などもその領域に入ります。暗黙知と形式知は氷山に喩えられます。言葉になっている形式知はよく氷山の一角と表現される海上に現れている部分に、言葉になっていない暗黙知は海に沈んでいる氷山の膨大な部分に喩えられます。つまり、人間の知識の殆どは暗黙知の領域にあるわけで、そこには新しい価値が秘められているため一種の可能性の領域だとも言えます。

このような理解に基づいて福音書に戻りますと、ニコデモは形式知のレベルに止まっていたことが分かります。ところが、宗教や信仰を持つもの、ことにキリスト者として生きるということは、本や文字による形式知だけではなく、他者との関わりや多様な活動を通して暗黙知の領域に沢山接すること、さらに進んでは氷山そのものを包み込んでいる海という未知と神秘の領域があることを心に入れ、知識だけではなく知恵も、頭だけではなくて心と魂も養っていくことだと言えます。そして、そういう過程でいただいたことを自分の言語で意識的に表現できるように努め、世の人々とその真の知識を分かち合うことが、信仰者の務めとして望まれます。簡単ではありませんが、そのような日ごとの務めを通して、私たちも「思いのままに吹く風が、どこから来て、どこへ行くのかを知る」(8節を参考)、つまり霊によって新たに生まれるものへと変わるようになるのではないかと思います。今のビッグデータやAIなど物質文明の発達が著しい時代だからこそ、暗黙知の価値はむしろ増していくことでしょう。




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