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日本聖公会各教区報のなかから
☆毎月、広報主事宛に送っていただく各教区報等のなかからご紹介しております。





北海道教区報


京都教区報






















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 渡辺政直主教の遺稿
北海道教区報『北海之光』
(第517号・2002年8月20日発行)

遺稿: 私の辿った「平和」への道
 ─ あの戦争体験が私を主イエスの下へと導 いた ─
元教区主教 ヨハネ 渡辺政直
 これは1999年3月に編集委員が手稲のお宅をお訪ねした折に生前の渡辺元教区主教が「青年の頃の証です」と言われて託された一文である。ご遺稿として全文掲載することにした。なお文中の小見出しは編集委員会で付したものである。

父の許しを得て
 海軍兵学校を受験

 およそ、人が主イエスのみ前、貴い救いの恵みに与るに至る道は十人十色で同じ道を辿るものは殆どいないことであろう。

 聖パウロのように劇的な改心を経験する者もあれば、聖テモテのように祖母ルイス、母ユニケの敬虔な信仰の中に温かく育まれて、主イエスの僕になる者もいる。私の辿った道も一種独特な、他の人とは違った道を辿って偉大な主の恵みに与る事となった。

 私の生まれは、今はロシア領サハリンになっている樺太である。小学生の頃、学校で、ただ一つの不凍港と教えられた真岡(現ホルムスク)で生まれた。

 父の職業は青果、雑貨商で日中戦争の始まる前までは、4、5人の店員で結構、手広く商売をしていた。しかし、戦争が拡大するにつれて店員が次々に応召し、店も縮小されていった。店員の代わりに御用聞き、配達、集金など、働く仕事一切が私に回されるようになった。まだ遊び盛りの小学生、中学生の時代、友達が楽しく遊んでいる時に自転車に品物を積んで配達に行かなくてはならない身に、淋しさと不満を持ったものだ。

 家の経済状態が悪化した頃、中学4年となり将来の身の振り方を考えなくてはならなかった。父は小樽の商事会社に奉公させたかったが、自分は医者になりたくてその折り合いがつかなくて悩んでいた。幸い、中に入って下さった方の助言で父は「お金のかからない学校なら」と許してくれた。その年に海軍兵学校を受験して見事に落第。中学5年の一年間、再起を決意して受験勉強に専念、1943(昭18)年に陸軍士官学校、海軍兵学校の2校を受験、幸いなことに2校に合格、考えた末に海軍兵学校を選んだ。

 江田島の兵学校生活は、生半可な今までの生活を一変する厳しい訓練と学業に明け暮れた。将来は、一海軍士官として御国のため、天皇陛下のため一身を捧げんとの意気に燃えた。

 寒い樺太で育ったから、泳ぎは全くできない人間であったが赤帽(泳げない生徒が被らされるキャップ)をつけ、ボートから突き放され、水をたらふく飲んで、死に物狂いに泳ぐ猛訓練の甲斐あって、人並みとは言えなかったが、一番ビリになりつつも泳げるようになった。

 またよく殴られた。どうして殴られるのかも分からずにビンタを張られることもあった。二号生徒になり一号生徒になる頃、戦況は日一日と悪化し、1945(昭20)年8月、あの忘れ得ぬ広島原爆投下の日を迎え、そして間もなく終戦を迎えるに至った。

地獄の広島を見て
 母の故郷で母と妹に再会

 兵学校の閉校、生徒の解散、帰郷、目まぐるしい変化が身の回りに起きた。荷物をまとめ、一先ず母の故郷であった富山県石動の郊外、田川村に身を寄せようと考え、学校を後にした。

 途中、人と荷物が鈴生りの無蓋石炭車にようやく乗ったものの、広島駅で停車、そこで初めて原爆の恐ろしい被害を眼の当たりにした。無造作に捨てられている死骸、無表情の人、血走った眼の人、その光景は、正に地獄そのものであった。広島を発って石動に着くまでの無蓋石炭車から見た町々の光景は、満足な形で残っている家など一軒もないくらいに、爆撃で破壊し尽くされていた。一体、私の故郷、樺太はどうなったのか。これが一番の心配であった。果たして樺太まで帰れるのだろうか。そして両親はどうしているのだろうか。この心配は、石動の田川村についてはっきりした。そこに母と妹がいたのだ。母は涙ながらに語ってくれた。「ロシア兵が突然上陸してきた。駐屯していた日本兵との間に激しい戦闘があった。婦女子は着のみ着のまま船で脱出、漸くのことで稚内に上陸、後は多くの避難民と共に列車に乗って石動まで来た。父は樺太に残った。消息は不明。親戚の数名が射殺された模様。等々…」。

 成程、着のみ着のままで何も持って来なかったようだ。大家族の伯父の家での生活、突然にやって来た3人の厄介者の世話、さぞかし大変であったろう。手持ちの金も百円余りしかなく、取りあえず、近所の農家の稲刈り作業を手伝わせて貰い、謝礼に米を貰って食べた。茶碗も満足になく、板切れを何枚か小さく切ってその上にご飯を乗せて食べた。蝗をとって煮て食べたことも忘れられない。

一家を支えるために
 石炭運び、進駐軍労働者

 稲刈りが終わる晩秋の頃、このままでは家族が餓死すると思い仕事探しにでかけた。着る物は海兵の服しかなく、見る人は皆「あゝ海軍の人間だ。日本を敗戦に追いやった軍国主義の人間か」と思ったようだ。誰も雇ってくれなかった。

 最後に訪れたのが往時の軍港、舞鶴であった。そこで、偶然兵学校の教官と出会った。今までの経緯を話し、仕事を探して家族の面倒をみたいと相談した。舞鶴にでかけたのは海防艦による海外からの引き上げ作業があり、乗員を募集していると聞いたためであった。

 教官は、「母と妹との面倒を見るには危険すぎる仕事であるから」と止め、取りあえず一家が東舞鶴に住むように奨めてくれた。当時、東舞鶴、行永には海軍の官舎が建ち並んでいたが、終戦で空き家になり、そのままになっていた。早速、その一軒を借り、初めて水入らずの一家3人での生活ができるようになったのは、実にこの教官の温かい配慮があったからである。

 母と妹を死なせてはならない。乞食をしてでも生きようと思った。当時、お米の配給は、一人一日二合一勺であった。労働者には一日30円の賃金に、お米三合が支給された。労働者、これが私にふさわしい身分であった。初め、日通(日本通運)の日雇い労務者に応募した。しかし、米担ぎテストで数歩歩いて倒れ、俵の下敷きになり失格、農園に回されて肥やし担ぎ人夫になった。ついで飯野海運の石炭運びをし、徹夜で船積み作業に従事中、落下してきた大型の石炭が右肩に当たり、病院通いをした結果、失職した。米櫃が空になり、この儘では一家全滅と考え、職探しの結果、旧海軍士官有志で結成している労働組合のあることを知り、加入し、専ら、米国進駐軍に雇用され、旧海軍舞鶴要塞地帯の武器破壊作業に従事することとなった。

 朝早くに出かけ、夜遅く戻る。夜、家に戻る前に魚屋から捨てるような骨屑を貰ってきたり、田圃で蛙を捕まえて食用にしたり、朝暗い頃から起きて燃料集めをしたり、今考えると、どうしてあのようにがむしゃらに働き続けられたのかとびっくりする。

母の急死に直面
 親切な医師に出会う

 ある日、仕事から戻ると、母が転がって苦しんでいた。腹痛のようであった。早速、近くの病院に連れて行くとすぐに入院しなくてはだめとの事。医師の診断で、回虫が体中にわいて手の施しようがない位に悪化しているとのこと。その後、数日間は看病を妹に任せ、日雇いをやめる訳にいかず、出稼ぎに出ていた矢先、病院から呼び出しがあり、大急ぎで駆けつけた時には、母は既に死んでいた。誠に親不孝な結果になった訳である。母の死に立ち会ってくれた医師は、大変親切な方であった。私に葬儀の費用のないのを見抜いてお坊さんを呼んでくれ、葬儀の費用を心配して下さった。棺も病院から出してくれ、葬儀の日には病院のトラックに積んで火葬場に運んでくれた。

 後で分かったことであるが、この医師はクリスチャンであった。初めて接した温かい温かい心遣いであった。聖書を初めて手にしたのは、淋しくしていた 我が家に、その先生が何気なく訪ねてこられて置いていかれたものであった。しかし、その頃は、開いてみようなどと考えもしなかった。

 間もなく、長い間、南方ハルマヘラに出征していた兄が小樽に帰ってきたという連絡を受けた。そして、母の死を知った兄は、私達を小樽に連れて行くために舞鶴にやってきた。この時、今まで張りつめていた一切の緊張が解けた。そして、夢遊病者のような状態で兄を迎えた。小樽に戻ってからは、今度は兄が張り切って、生きるための仕事探しに奔走してくれたので、私は、唯従うだけであった。

心を引いた日曜学校の聖歌
 思い出した水天宮の教会

 時折、フラリフラリと近くの水天宮の丘を散歩することが多くなり、鳥居の中に教会のあるのに気が付くようになった。

 ある日曜日の朝、いつものように散歩がてら、教会の前を通った時、日曜学校の生徒達の歌う聖歌を耳にした。一度、是非、この建物の中に入りたいと考えた。

 樺太に残された父は、ロシア兵の捕虜となって真岡で労働生活をしていたが、帰国を許されて引揚船で函館に着くとの知らせを聞いたのは、それから一年後であった。そして、その時電光のように閃いたことは「父は母の死を知らずに帰国する。再会を楽しみに帰国する。」ということであった。「父に何と知らせよう。」これが親不孝をした私の悩み、苦しみになった。このため眠られない日が続き、ノイローゼ気味になった頃、ふと、舞鶴での医師のこと、水天宮の教会のことが思い出され、教会に訪ねて行こうという気持ちになり、抵抗なく教会の門をくぐった。

 これが小樽聖公会であったのだ。「本当のことを話しなさい。」この牧師さん(注)の言葉は、何と私を勇気づけてくれたことであろう。

 父を迎えた。祈る気持ちで母の死を話してみた。父は眼をつぶって一言も言わなかった。

 恐らく、母に会える期待がかくも簡単に踏みにじられた戦争に対する悲しみと怒りをじっと抑えていたのであろう。

 私が教会に通いだしたのは、それからのことであった。 (原文のまま)
(注)岩田慶次郎司祭と推定される。教区90年史によれば1930年から1954年まで小樽聖公会司祭を務められた。






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パレスチナ難民キャンプ訪問
―イスラエル兵との緊張感の中で―
京都教区報『つのぶえ』
(第520号・2002年7月20日発行)

 6月4日(火)から14日(金)にかけて、パレスチナ/イスラエル市民交流会というプログラムに参加し、主にパレスチナ難民キャンプを訪れました。

 日本からの参加者は約35名。一旦入国を拒否され数時間後に入国できましたが、終始イスラエル兵との緊張感が私たちの旅を支配していました。

 今パレスチナ自治区といわれているのは1967年の第3次中東戦争の時にイスラエルによって占領されたところで、その中にある、ラマラ、トゥルカレム、ジェニン、ガザ、ベツレヘム、へブロンをまわり、エルサレムに数日滞在しました。

 いたるところにユダヤ人入植地が作られ安全の為という理由でイスラエル兵が駐留し、チェックポイントという検問所が人々の暮らしを分断し、日常的に弾圧を加えていました。イスラエルの最初の首相ベングリオンはイスラエルに国境は無いと言いました。イスラエル兵が立っている場所が国境だと。今も明確な国境はありません。拡張し続けるイスラエルと人間の尊厳そのものをなきものとされ続けているパレスチナの人々。

 トゥルカレム難民キャンプでホームステイさせて頂いた折、19才のパレスチナの少年が私に、「平和が来る前にみんな死ぬだろう」と言ったことが胸に突き刺さっています。

 非暴力ははたして平和を生み出すのだろうか。誰もが立ち止まる問いです。ベツレヘムで平和活動を続けるパレスチナの方は「武力で解決しようとしてきた結果が今の状況を生み出している。武力では平和は来ないことを体験として知っている。だから非暴力行動をする」と言います。

 1948年4月9日エルサレム郊外のデイル・ヤーシーン村がイスラエル兵によって虐殺されました。政治的に中立だった村です。パレスチナの人々の村だという理由で虐殺し、人々をパニックに陥れました。写真の上の方に映っている建物はユダヤ人入植地で下に映る家は虐殺されたデイル・ヤーシーン村のものです。今も建物が残っています。人はかつてそこで何があったのかを問うこと無しにそこで生活できる生き物らしい。この光景はエルサレムを訪れた人なら誰でも目にしています。(写真割愛)

 頻繁にF16戦闘機とアパッチ戦闘へリコプターが上空を飛び、日常的に難民キャンプはイスラエル軍の攻撃を受けています。アメリカは年間30億ドル以上の軍事援助をイスラエルにしており、他でもない日本政府はアメリカを支援しています。パレスチナの平和はこの世界全体が武力という暴力を否定していかない限り決して訪れないと感じました。イエスは今もエルサレムを見て涙を流しておられるに違いありません。
(司祭 小林 聡)
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