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ほっこりカフェとともに

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
3人目は、福島県いわき市小名浜の『小名浜 聖テモテ支援センター』で支援している泉玉露応急仮設住宅団地にお住まいで、ボランティアに携わってきた西原千賀子さんです。


 

『ほっこりカフェとともに』

 富岡町 泉玉露応急仮設住宅団地
ボランティアグループ「ほっこり」
西原千賀子

『ほっこりカフェ』
東日本大震災から5年2カ月が過ぎました。3月11日の大きな地震と津波、その後の原子力発電所の大事故が起き、私たち富岡町民には何も知らされないまま、翌12日から行く先のわからない避難が始まりました。人によっては避難所を何度も移動し、家族とも離れ、辛い不安の日々を送ってきました。
震災の年の9月、この泉玉露仮設住宅に入居が始まりました。不安で不自由な避難所生活で疲れ切った身体と折れそうな心。仮設住宅の住民となった私たちのために、日本聖公会小名浜聖テモテボランティアセンターのご支援で、癒しの場となるほっこりカフェが開かれました。香り高いコーヒーをいただきほっとしたのと、コーヒーを運んでくれた教会のボランティアの方から、「これまで大変でしたね」と優しく声をかけていただき、緊張が取れ、涙が出そうになったことを覚えています。
ほっこりカフェは、住民交流と町を離れていた町民の再会の場になりました。同じ町民とはいえ住んでいた地区が違うと、顔を合わせれば「初めまして」の挨拶から始まります。「あんだ、どごさ住んでいだの。んだの、オラげの近ぐだね」「よろすぐね」。懐かしい富岡弁のひびき。人の声も聞き取れないほどの賑やかさの中を、コーヒーやお菓子を忙しく運んでくれる教会のボランティアさんを見てありがたく思うとともに、これは私たちのこと、自分でやらなければと思いました。思ったら動く、ボランティアセンターの方にお願いして、カフェのボランティアをさせていただくことになりました。
受け入れていただき本当にありがたいことでした。この日から、週2回のほっこりカフェの手伝いが私の生活になりました。その後、住民の皆さんを募り、2つのボランティアグループで運営のお手伝いができることになりました。

 

『ほっこりする一日』
9時30分、「もう入ってもいいがい」と声がかかる。手を繋いでくる2人「ほら、ここで靴脱いで、オラの手につかまれや」。お互い高齢なのに、いたわりながらの微笑ましい光景でカフェが始まる。「ここのコーヒー、うまいごどなー」とすっかりコーヒー通。各教会から折に触れ送っていただくお菓子に顔をほころばせながらも、珍しいからと食べずにおみやげにしたり、顔を見せない隣人を気にして迎えに行ったりと、常に人を思いやっている姿は嬉しいものです。人生の先輩の教えもあります。お新香の漬け方、煮物のコツ等。ほっこりカフェで顔を合わせ話をすると、楽しく気持ちが落ち着くと言い、ふるさとでは知らなかった人同士が、今は家族のように支え合って暮らしています。
ボランティアで来られた方に震災の体験を語る人、その肩を優しくなで包み込むように聞く姿を見られるのも、このカフェです。皆のかけがえのない場所になったほっこりカフェを、居心地の良い場所にしたい、楽しく集まってもらいたいと考えることが私たちの楽しみでもあります。

 

『町民歌』
「桜咲きつつじも咲いて 夜ノ森(※)は花の季節よ~🎵」。コーヒーの香りの中に流れる歌声。それぞれが思いを込めて口ずさむほっこりカフェのひと時、社会福祉協議会のリードによる富岡町民歌「富岡わがまち」です。歌詞全般がふるさと富岡の風景、歌えばそこに帰れない我が家がある。初めの頃は涙で歌えなかった。「何で町民歌なの」と席を立つ人もいたほどでした。毎日正午になると全町に流れていた町民歌。それぞれの人生の思い出が詰まっている今は帰れない町。悲しくて辛くて悔しくて歌えない、それでも思いを一つに出来るこの歌を歌う。ふるさとを忘れたくないから。最近は涙なく歌えるようになってきましたが、それでもまだ1番しか歌えません。「カフェだから歌うんだよ」と照れ気味に言う人、皆そうかも。

 

『お母さんの力ってすごい』
ほっこりカフェは、お母さんたちの仲間作りの場にもなりました。餅つき大会・芋煮会・花見など、自治会が主催でも、ほっこりカフェが主催でも、カフェのボランティアのお母さんだけでなく、自主的に集まり準備から調理かたづけまで全部やってしまいます。誰が言うわけでなく、できる人ができる事をする。お互いを尊重し、得意分野で力を発揮する。お母さん、すごい。もちろんお父さんの力がなければ、行事はできません。
私たちは、この仮設で初めて会いました。それがこの数年間の間に、かけがえのない大切な仲間になりました。声が聞き取れないほどいっぱいだったカフェの日、現在は毎回20名程の参加者があります。
自宅の再建、公営住宅への入居などで仮設を出られる方が多くなってきました。嬉しいことですが、少し淋しい気もします。退去されても、カフェの日にコーヒーを飲みに来てくれる方もいます。コーヒーと優しい言葉に癒された、ここのすべてが楽しい思い出に変わる時期が来ています。
かけがえのない場所、ほっこりカフェをつくっていただいた、小名浜聖テモテボランティアセンターのご支援に、心より感謝します。

 

『桜舞う町で』
富岡町復興応援歌「桜舞う町で」は、今、町民の間で歌われている歌です。
桜は咲くその季節を覚えていて、美しく咲きます。見てくれる人がいなくなった町で、けなげに咲いています。「大丈夫、待っているから」と言っているようです。帰れる日、その日が来たら、桜の下でほっこりカフェなんてどうでしょう。

 


(※)夜ノ森(よのもり)とは、福島県富岡町と大熊町の境に位置する森林地帯。放射線量が高い帰宅困難区域と居住制限区域に分かれているため、道路にはバリケードが設置され、入ることが出来ない場所が残る。桜やつつじの名所であり、町民にとってふるさとのシンボルとなっている場所である。

震災から5年目のボランティア

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
2人目は、福島県いわき市小名浜で仮設居住者支援を行っている『小名浜 聖テモテ支援センター』でボランティアに携わってきた中原よし子さんです。


 

『震災から5年目のボランティア』

 小名浜聖テモテ教会 エリサベツ
中原よし子

何もかも失われ心が折れていた私に、神様が一つのレールを敷いてくれました。それがボランティアという道でした。初めての経験です。どう接すればいいかわかりませんでしたが、仲間に加えていただきました。大変戸惑いましたが、京阪神3教区(京都・大阪・神戸)の聖職・信徒の方々が、同じ仲間同士として心を開いてくれました。しかし3教区の方々と接するのも初めてです。不安の中、ボランティア活動が始まりました。

3教区の方々の仕事を見ながら学ばせていただき、時間をかけお手伝いをさせていただきました。仮設住宅でのほっこりカフェでは、一人ひとりに一杯のコーヒーを配り、寄り添って話しかけ、自分自身を証ししたりして近づいていきました。少しずつ話しかけてくれる仮設の方々が増えていきました。一人ひとりの声が大きくなっていきました。とても嬉しくなり、ついつい一緒になり、仮設の住民と間違われることもあるくらいはしゃぐこともありました。あるご婦人は私の手をいつも握って「ありがとう、ありがとう」と言ってくれましたが、その言葉に私の感謝が一杯です。お手伝いをして、本当に良かったと思いました。

自分達のことは自分達で頑張ろうとする姿勢が見られたのは、仮設の住民によるボランティアグループが発足したことです。あれだけの悲しみを経験し大変な生活をしているのに、人のために手を貸してくれる素晴らしい心に感謝でした。

5年間の中には、悲しいこともありました。ボランティア仲間の逝去です。わたしが戸惑っていた時、いつも声をかけてくれた彼女は、今は天国で私たちを守ってくれていると思います。

泉玉露仮設でのほっこりカフェは、週2回(月・金)です。渡辺町昼野仮設も、同じく週2回(木・土)です。週4回、とても楽しくお手伝いをさせていただいています。今では、私の方が仮設の方々に癒されていると思っています。このボランティアとしての関わりがなければ、本当にどうなっていたかわかりませんでした。

仮設に多くの友人ができました。同じ人間同士ですもの、どこでまたお世話になるかわかりません。深い悲しみを乗り越えきてた仮設の方々と、命の大切さをますます伝えなければならないと思います。生きていれば、楽しいことが一杯待っています。ある時、一人の女性が「ほっこりに中原さんがいてくれてホッとした」と泣きじゃくりました。私には、ほっこりで辛くて耐えられない事が何度かありましたが、いつもその言葉を思い出し、一人の方のお役に立ったと思うとボランティアをやってきて良かったと思いました。

仮設の方々は、まだまだ将来への不安を抱いていると思います。復興住宅に入られても、不安は解消されないと思いますが、皆さんと手をつなぎあい、周りの方々とつながりを作り出すことが必要と思います。

建物の復興はできても、心の復興は未だに見えていません。月日が経つにつれ、ますます孤独感は大きくなると思います。自分から進んで友達を作っていただけたらと思います。私は知らなかった方々とボランティアして、友人ができ、支えられて生きています。特に日立聖アンデレ教会の信徒さんには感謝でいっぱいです。あなたの支えがなければ、ここまでやることはできませんでした。また3教区の方々のことも、決して忘れません。どんな時でも笑顔で接する姿を忘れません。今もほっこりカフェのために、美味しいお菓子とメッセージを送っていただき、ありがとうございます。まだまだ続くボランティア、少しでも寄り添えたら幸いと思っています。

コラム

東日本大震災から5年が経過しました。
節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。

ボランティアを始めて3年 ~今思うこと~

東日本大震災から5年が経過しました。節目である年を迎えるに当たり、共に歩んできた方々がこれまでを振り返り今想う事を、リレー形式で掲載します。
1人目は、福島県相馬郡新地町の仮設住宅内に拠点を置いている『被災地支援センター しんち・がん小屋』のボランティアスタッフである秦純子さんです。


 

『ボランティアを始めて3年 ~今思うこと~』

支援センター・しんち がん小屋ボランティア
秦純子

私は、ボランティアとして毎月「支援センター・しんち がん小屋仮設」に関わるようになって3年経ちました。この間、主にブログの作成、写真や文書の整理など事務的な仕事の他に居宅訪問もさせて頂いています。水曜喫茶や指圧・マッサージなどイベントのお手伝いもします。いろいろな活動を通して、仮設住宅に住む人たちと過ごす時間は、私にとって何にもかえがたい大切なものです。

震災から5年、私が関わり始めてから3年経って、やっとボランティアの意味が少しずつ分かるようになってきました。先ずは、「ボランティアとして受け入れていただきありがとうございます」というのが、今の私の率直な気持ちです。
震災から5年の時を数え、初めて新地に伺った頃のことを、あらためて思い出しています。
自分としては、支援をしているつもり、わかっているつもりで伺った新地で、現実の被災者の姿に触れ、実は何もわかっていなかった、自己満足の支援であったということを思い知らされました。帰りの新幹線では涙が止まらず、聖公会東北教区のH司祭にメールしました。そのとき司祭から、「純子さん、良い経験をなさいました。支援とは、ただ傍にいることです」との返信がありました。
その時、私には何を言っているのか、さっぱり分かりませんでした。毎月新地に通うようになって3年、やっと、あの時H司祭が教えてくださったことが分かるような気がします。ただその場にいるというのは、誰にでもできることのように思うかもしれないけれど、誰にでもできない事でもあります。そして拠点がなければそれもできないことです。

ランソン女史(※)は多くの種をまいていらっしゃいました。これから種が育つのを願うものです。アッシジのフランチェスコは、崩れた教会を建て直すときに、自ら1つずつ石を積んだと本で読みました。磯山聖ヨハネ教会も、建物だけでなく教会としての働きもこれから1つずつ積み上げていくのだろうな、と思っております。支援センターの働きが磯山聖ヨハネ教会の隅の頭石になることを信じております。そして、聖公会の関係者の方々と共に居られることへの感謝と共に、これから建つであろう磯山聖ヨハネ教会の未来を信じて活動を続けたいと思っています。


 

(※)アンナ・L・ランソン女執事

磯山聖ヨハネ教会の伝道は、1920年の夏に青葉女学院長アンナ・L・ランソン女執事が病後保養のために磯山に来て、林間日曜学校を開いたことに始まります。

ランソン女執事が休暇でアメリカに帰郷している間はカールセン女執事がその後を引継ぎ、種まきの家を建設しました。カールセン女執事の逝去後には、ランソン女執事が再び磯山で伝道を開始します。

1928年にはランソン女執事の住まいであった星見荘にて初めての洗礼式、1932年には初めての信徒按手式が執り行われました。

1936年には礼拝堂兼会館が新築され、同年12月27日聖ヨハネ日に聖別式が行われ、同時に従来仙台聖公会の会衆であった信徒56名を分割して、磯山聖ヨハネ教会員とされたのです。(東北教区成立80周年記念誌より)