バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第三部・その2 (2)
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いを到らせる神の力だからです」 (ローマ1;16)。
パウロは福音を恥としないで、命がけでその福音を宣べ伝えるのは「救いに到らせる神の力」だからだと云います。パウロの福音理解の核心です。これが福音の本質だと云うわけです。福音は、主イエス・キリストを告げ知らせる言葉です。但しこの言葉は単なる情報伝達の言葉ではありません。福音と云う言葉の質は「救いに到らせる神の力」なのです。「神の力」なのです。
パウロは「わたしは福音を恥としない」と云った直後に「福音は神の力だから」と理由をつけます。力には大きさだけでなく、力の向かう方向があります。神の力は信じる者の内に働いて救いに到達させるものである(フィリピ2;12〜13)とパウロは理解しているのです。
福音は「すべて信じる者にとって」救いに到らせる神の力です。この「すべて信じる者に」と云う句は、「救いに到らせる神の力」が働く場を示しています。福音は言葉です。神からの語りかけの言葉です。語りかけられた言葉を聞かなければ人格と人格との関係は成り立ちません。このことを信じ受け入れて初めて人格間の結びつきが成立し、その場において霊的な力が働くようになります。神の力は霊的な力であり、神と人間との間に働く力ですから、「信じる」と云う場において働くようになります。その時代、ユダヤ人は異邦人を軽蔑していました、その異邦人が福音を「信じる」ことによって、「救いに到らせる神の力」を頂いて救われる、というのです。確かに福音は先ずユダヤ人に来ました。ユダヤ人は「あなた方はモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです:(使徒13;38〜39)と云う使信を聞くようになりました。この福音を聞いて信じるなら、ユダヤ教徒でなくとも「救いに到らせる神の力」に与るのだという事です。これはユダヤ教の存在価値を否定しかねない重大な革命的宣言です。ユダヤ人であるパウロは、ことの重大さをよく自覚していました。だから異邦人が異邦人のままで、福音を信じることによって、「救いに到らせる神の力」を受ける根拠を、次のように説明します。
「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『義人は信仰によって生きる』と書いてある通りです」 (ローマ1;17)
パウロは神が人間を救われる働きを「神の義」と表現しています。ユダヤ教において(そして現代の人間的正義観においても)、義は様々な意味で用いられている言葉ですが、ここでは神が人をご自身との交わりを持ち得る者にならせて、受け入れて下さる神の働き、すなわち神の救いの働きを指しています。当時のユダヤ教は、ユダヤ教の律法、殊に割礼を受けなければ、ユダヤ教の信徒になれず、救われなないと定めていました。割礼を受けることは、「律法によってのみ義とされようとする」行為であり、キリストの十字架や復活を、ないがしろにするものでした。神がキリストにおいて成し遂げられた最終的な救済のわざを、不十分だとするもので、「キリストとは縁もゆかりもない者」となってしまうことです。だからキリストにおいて与えられている無条件・絶対の恩恵から脱落する者となるのです。
勿論この第三部も、市川喜一師の「パウロのよる福音書−ローマ書講解」「福音の史的展開」 「パウロによるキリストの福音」の内容を記載させて頂きました。感謝。
第2部の記載において、次のような間違いがありました。これはすべて、著者バルナバ畑野栄一の責任です。お詫びして次のように訂正いたします。
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訂正個所 第2部 イエスの神の国宣教から、弟子たちの「福音伝道」へ 1、小見出し、「安息日の論争」 14行目 誤記 その中の(すべちに)完成 正記 その中の(すべてを)完成 2、小見出し、(同上) 19行目最後の字 誤記 「神」 正記 「人」
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』
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