バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第三部・その2 (1)
「信仰・希望・愛」の展開の物語
第三部 パウロの福音活動と福音記者たちの「福音書伝道」及び 「福音 と福音書」
一方パウロが「ケリュグマ」として用いている のは、「キリストが、聖書に書いている通りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこ と、また聖書に書いてある通り3日目に復活したこと、ケファに現れ、その後12人に現れたことです」 (Tコリント15:3〜5 )
また、「御子は、肉によればダビデ の子孫から生まれ、聖なる霊によれば死者の中からの復活によって神の子と定められたのです。この方が私 たちの主イエス・キリストです」、(ローマ1;3〜4)。このケリュグマは、パウロ 独自のものではありません。始めのものはパウロが初めてエルサレムに行きペテロやほかの弟子たちと会った時 に受けた「エルサレム・ケリュグマ」、あとのものはローマの信徒たちにパウロが手紙を送る前に、既にエルサ レムから伝わっていたと考えられます。しかしパウロが実際に告知しているのは、エルサレムのキリスト信仰共 同体が福音書の中でも盛んに用いた、ご生前のイエス伝承は一切使わず、また「人の子」と 云う称号も一度も用いていません。彼は異邦人に遣わされた使徒ですから、異邦人の理解できないような言葉は 使わなかった。パウロはもっぱら「イエスの十字架とキリストの復活」を語ることに専念したのです。と云って もパウロの福音告知は、異邦人だけに向かったのではなく、まずユダヤ人にも向かったのですが(パウロが受け た裁判の中でパウロが述べた証言でも、その証言の相手はユダヤ人です)、福音はユダヤ人向けと異邦人向けの 二つある筈はありません。パウロの福音告知は使徒言行録の中でルカも一部取り扱っていますが、それは矢張り ルカ自身の見解も入って書かれていますから、パウロの福音告知を学ぶには彼の手紙が最も大切です。その中か ら学びましょう。
「人は律法の実行ではなく、た だイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。 これは律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実 行によっては、だれ一人として義とされないからです」(ガラテヤ2;16)。
「義とされる」とは神から正しい者と認められて、神 に所属する者、神との交わりに生きる神の民と認められることです。「キリストの信仰」とは、「キリストへの 信仰」と云うようなキリストを対象とする人間の姿勢とか態度ではなく、キリストに自分の全存在を投げ入れ、 キリストに捉えわれて、キリストと一つになって生きる人間の姿を指します。
「しかし今や律法とは別に、神の「義が現れた」(ローマ3;21a)。パウロは、 ローマ書において、まず、ユダヤ人も異邦人も、神に背いている現実を指摘し、その後キリスト・イエスの出来 事において、実現した救いについて如上のように述べました。神の義が福音によって(福音の 中に。福音において) 現れたという宣言はローマ書全体の「主題です」(ローマ 1;16〜17)。
パウロのアンテイオキキアにおける福音活動など、生涯の宣教活動に触れることは大切な観点ですが、彼の伝道旅行を詳述する余裕はとてもありませんので、いよいよこれから彼 の説く福音の内容について触れたいと思います。詳述する力もありませんし、スペースもありませんので、初め に書きました通り、ほんの『さわり』だけに過ぎませんが、彼の「福音伝道」の内容の説明をおもに取り上げた いと思います。
バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』
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