バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書@) (6)
「はじめに」神は天と地を創造して、人をその中に置かれた。所が人は神に背き、その歴史は罪と死が支配するものとなった。その歴史の終わりに至って、神は選ばれた民イスラエルを通して準備して来られた救いのみ業を成し遂げ、恩恵によって支配し給う新しい時代を開始された。神はその新しい時代の支配を《神の子イエス・キリスト》によってなされるのです。今がその時代です。この御子キリストによる神の支配を知らせる言葉が福音です。新しい時代の「初め」は、からの墓に至るイエスの地上の生涯の真実です。十字架、復活に至るイエスの生涯は、天地の存在以上の重さを持っているのです。
ギリシャ語のキリストは、ヘブル語のメシア(油注がれたる者)が原語ですが、神が世を救う為に遣わされる救世主を意味し、イエス・キリストが唯一の救い主であるとの信仰を表す為に、キリストと言う名称はイエス・キリストに限って用いられた。即ち、キリストこそ私たち人間に対する神の最終的な語りかけの言葉であること、そしてキリストは、十字架につけて殺され、神によって復活させられて「今も生きておられる方」です。「キリスト」と呼んでいる方は、このような「復活者イエス」のことなのです。だから、キリストを語る時、どうしても十字架につけられたイエスに触れなくてはなりません。「十字架につけられたキリスト」とは、復活されたキリストが、聞く者に向かって「私はあなたの為に死んだ」と、「私とあなた」の関わりの中で語っておられる事なのです。この十字架の言葉を真剣に、全存在を以って聞く時、私たちはそれを信じるか、信じないか、態度決定を迫られます。信仰すると言う肯定的な態度に導き入れられる時、キリストの霊との交わりが生じ、私と言う人間が新しく変わって行きます。勿論人によってその変り方は早かったり、ゆっくりであったりするわけですが、一般的な変わり方は、その人間が希望を失わなくなり、何時も喜んでおり、神と人に対して愛を現すようになると言われています。しかし、洗礼を受けてたちまち変わる、奇跡的に私の悪い所は美しくなると考えていると、大抵失望します。私も洗礼後全く自分が変わらないので、聖餐を辞退しようとした事があります。時の牧師に《何を言うのです。人間はなかなか清くなったことがわからない。だからこそ聖餐によって清められる必要があるのですよ》と叱られました。
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