バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書@) (4)
それまで民族の大きな希望として許されていたかに見える、ダビデ王的メシアではなく、苦難の僕としてのメシア=十字架のキリストの予告ともと思われる予言を、救いの言葉として発します(「主の僕の歌」として記載される大切な予言です。次の箇所です。(イザヤ書 42:1〜4 49:1〜6。50:4〜9 52:13〜53:12)。その他捕囚期における諸預言者―例えばエレミア・アモス・ホセヤ等は、繰り返し民に悔い改めを促し、一旦は悔い改める方向へとイスラエルの民達は動くのですが、民達をリードする、サドカイ人(神への礼拝を司る者、いわば僧達)、ファリサイ派や律法学者達、(倫理的道徳的生活態度を指導し、神に従う正しい生き方を教える指導者や学者達)が神の真意を悟らず、主の平和を守らず、神の前に己を低くせず、貧しい者を虐げ、弱者を救わず、表面的な倫理箇条に沿うことだけに終始します。神からの立派な約束を頂きながら、人間は神の言葉に従う事、神の義(神の愛)に沿う事が出来ないのが明らかになってきたその時、神はそれでも人間を救いたいと、もはや人間が自分の意志と力だけで神の救いの目的に達すると言う方法に恃まず、イエス・キリストをこの世に送って、人間を無条件で救おうとされるのです。『神の子イエス・キリストの福音の初め』はそのイエス・キリストの事実を伝えているのです。十字架の上で、イエス様が亡くなられる時、7つの言葉を発せられますが、その内の一つ「事終わりぬ=完了した」と言う言葉は神の約束、すなわち、神がイエスに託された神ご自身の御目的《人間の救い》が、イエス様の、父なる神への従順によって、完成、成就したと言っておられるのです。それは《救いはイエス・キリストの十字架によって、無条件で成し遂げられた。それだけを信じなさい》と言うことです。
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