バルナバ栄一の「聖書談話」(マルコによる福音書@) (5)鳩

 さて、弟子達が、イスラエル民族にイエス・キリストの事実を話す際には、イエスとキリストは別々の意味を持っていました。キリストと言う意味は、彼らの救い主を意味している事は、ユダヤの人には明らかな事でした。しかし、イエスの十字架によって救われる事がイスラエル民族以外の異邦人(主としてギリシャ語を話す人たち)に伝えられるようになると、イエス・キリストと言う名は、畑野栄一のような姓名と受け取られるようになって来ました。これは宣べ伝える側にとっては、一番肝心な事が明らかにされない、困った状態ですので、主(キュリオス)と言う言葉《イエスは主であると言う信仰告白の大切な事をパウロは言っています》を使うか、或いは神の子と言う言葉を『イエス・キリスト』のあたまにつけて、イエス・キリストが神の権威と力を持っておられる方であり、唯の人間ではない事を表したのです。マルコは福音書の冒頭に『イエス・キリストは神の子であり、神様の権威と力を頂いて生まれてきた方ですよ』と言っている訳です。その上に、イエスとして生きておられた時、父なる神に大変従順であり、神の愛を実行された。耳の聞えない者は聞えるようにしてやり、眼の見えない者は見えるように、足なえを歩ませ、病の者を癒し、貧しい者に福音を聞かせると言う生涯を過ごし、最後に「人間の罪を拭い去る為に」罪びとの人間の代表として,犯罪人の処刑の道具である十字架にかかって,人間への呪いの的となって死ぬと言う、生涯を送られたのです。罪を犯したことのないイエス様が、唯父なる神様のご意思に従順に従って、単に死刑に処せられるだけではなく、今まで自分と一体であられた父なる神から十字架上で絶縁され、親子の縁を引き裂かれると言う苦しみを経験されるそのことによって、神が人間に赦しを与えられ、人間は今まで背いていた神の方をようやく向くことが出来るようになる。その時私たち信じる者に与えられた、復活者キリストの霊=聖霊によって、イエスはキリスト=私たちの救い主である事を信じ告白し、また私たちは、イエス様の愛のご性質に与る事が出来るようになったのです。その事を「マルコの福音書」によって、これから学んで行きたいと思っている訳ですが、今日は『イエス・キリストの福音の初め』の意味を考えて見ましょう。
「イエス・キリストの福音の初め」の意味する事は、「地上のイエスの言葉と教え、その働きと生涯の事実こそ、エルサレムから始まり今や全世界に宣べ伝えられ、万民に救いを与え、新しい時代を齎している『復活者キリスト』の発端であり、根源である、と言っているのです。」これは、創世記の世界における神の創造の「初め」と言う言葉に対応して、新しい《時代の開始》を告げる、ラッパの響きとなる、と市川氏は云っておられるが、私も同感です。

 

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