2025年2月23日 顕現後第7主日(C年)

 

司祭 マタイ 出口 創

「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。」
【ルカによる福音書6章31節】

 私が神学校を卒業したまだ若い頃の出来事です。詳しいいきさつは覚えていないのですが、私がある信徒さんに接する姿勢が、「冷たい」という指摘があったのだと思います。私が冷たく受け取られる姿勢で接していた方は、確か、私がその方の状況であったなら、静かにそっとしておいてほしいと思うので、そっとしていたと思うのですが、それがその方や他の教会の方からは、「冷たい」姿勢と思われてしまったようです。
 当時その教会にいた私の幼馴染が、個人的に意見してくれたことがあります。
幼馴染「何でそんな人と距離を取るような姿勢をするん? 私やったらもっと励ましてほしいと思うで? 聖書にも、『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』って書いてあるやん。」
私「うん。僕がその方やったら、逆に、そっとしておいてほしいと思うねん。だから、そっとしてるんやけど・・・」
幼馴染「え? あんた変わってるわ!」
 この聖句をそれだけ抜き出して、人間関係に当てはめても、私が体験したようなズレ?が起こります。イエスさまはここで、本当は何を教えているのでしょうか。

 人からどんなひどいことをされても、それでも尚、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と教えていることが分かります。
 具体的に少し見てみます。「悪口を言う者」に対して、腹を立てるのでもなく悪口で返すのでもなく「祝福を祈り」なさい。「あなたの頬を打つ者」には、打ち返すのでも警察に告発するのでもなく、「もう一方の頬をも向けなさい」。「上着を奪い取る者」には、奪い返すのではなく「下着をも拒んではならない」。「求める者には」それが何であれ誰であれ、「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」とイエスさまは教えるのです。そして次に「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」とまとめ上げるのです。
 どんな時でも、どんな相手でも、どんなに嬉しくなくても、どんなに怒り狂っていても、それにも拘らず、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と教えているのです。人にしてもらいたいと思うことはどんなことですか? 祝福を祈ってほしい、優しくしてほしい、愛されたい、赦されたい・・・ そうであるなら、いつ誰に何をされても、そのようにしなさい(祝福を祈りなさい、優しくしなさい、愛しなさい、赦しなさい・・・)
 どんなにひどいことをされても、どんなにひどい扱いを受けているとしても、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と、イエスさまは教えているのです。決して、単なる良好な人間関係の教訓を伝えている訳ではないのです。

 話は飛びますが、ルカによる福音書22章以降で、イエスさまの受難物語が始まります。裏切られ、逮捕され、暴行され、裁判され、尋問され、死刑判決を受けて、十字架で処刑されます。この一連の受難物語において、イエスさまは一貫して、いわれのない残虐な非道を受け続けるのです。このさなかにあっても、イエスさまご自身が、「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という教えを、実践なさっているのです。
 裏切られても裏切り返さず、逮捕されても暴行されても反撃せず、裁判され、尋問され、死刑判決を受けても、天の軍勢をもって反転攻勢せず、十字架刑で無抵抗に処刑されていく。イエスさまは、ご自身がされたくないことを人々からされても、ご自身が「人にしてもらいたいと思うことを、人にも」なさっていることにお気づきでしょうか。
 神さまが、イエスさまが、私たち人に、「本当はこのようにしてもらいたい」と思っておられることを、私たちに対していつもしてくださっているという、宣言でもあると思うのです。
 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」。なぜなら神である主はいつも、わたしたち人間に対して、ご自身が人にしてもらいたいと思っていることを、人に対してなさっているからです。