司祭 ヨハネ 荒木太一
泣きながらでも
「今泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」【ルカ福音書
6:21】
イエスさまは幸せと不幸せについて教えます。貧困と飢え、悲しみと迫害にある人は幸せになる。逆に、裕福で満腹して、笑っていて皆から褒められる人は不幸せになる。
幸せとは、不幸せとは何でしょうか。財産、健康、家族、夫婦、友人、子供や孫、趣味、充実、地域活動・・・。そして祈り、信仰、希望、愛などの信仰的なことも。
幸せのリストの前で「私はどんな幸せまたは不幸せを受けるのだろう」と思います。
しかし大切なのはこの教えは癒しを求めて来た群衆を前に、主イエスさまが「弟子たちを見て言われた」ということです。群衆はこの世の人々を、弟子達は私たち教会を表しています。つまりここで私たちはただの幸せの享受者ではありません。不幸せに面しても主イエスさまに従っていく弟子です。受け身ではなく能動的に主の道を選び取っていく主人公です。現実の描写ではなく、今ここにおける生き方への呼びかけなのです。
幸せが与えられたとしても、不幸せが与えられたとしても、それでも主に付いていく。「今泣いている」ときも、それでも、泣きながらでも主のあとについていく。「ついて来い」と主イエスさまが呼んでおられるのです。
そして私たち弟子の模範はイエスさまです。何も持たずに人のために死ぬのです。貧しく、飢え、泣きながら父に従って生き、死なれました。そうして復活という救いの道を開かれました。父に従うことで、この世のどんな価値観をも超える幸せ、神の国を実現されたのです。
この世で幸せではないときこそ、主の声に耳を澄ませ、主のあとに付いていきましょう。今は泣きながらでも。
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