司祭 エッサイ 矢萩新一
今日の福音書(ルカによる福音書 第4章14−21節)は、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたられたイエスさまが、聖霊に満たされてガリラヤで宣教をはじめられ、故郷のナザレの会堂で聖書を朗読された場面です。ナザレ宣言と呼ばれる預言者イザヤの言葉を朗読して、「貧しい人に(福音=良い知らせ)を告げ」、「主の恵みの年を告げ知らせる」という自らの宣教の姿勢をはっきりと宣言されました。律法主義的で、自己中心的、高慢でカチコチになってしまっていた当時のユダヤ教の会堂の中で、その聖典である旧約聖書を用いて、「捕らわれている人の解放」「目の見えない人の視力の回復」「打ちひしがれている人の自由」という神さまのみ心を再確認するようにと語られたのでした。
「解放」や「自由」と訳されている言葉は、どちらもギリシャ語で「アフェシス」という単語ですが、他の箇所では「(罪の)赦し」とも訳されている言葉です。「赦し」と「自由」とでは、かなり印象が異なりますが、罪から解放されることと、束縛から解放されることが赦しでもあるということです。イエスさまの宣教の業は「赦し・解放・自由」の為にあるということです。面の通り、経済的に貧しい人、戦争などによって捕虜となった人、障がいを持つ人たちのことだけを指しているのではなく、私たち自身の中にある心の貧しい部分や何かに捕らわれている部分、隔たりや不自由のある部分を解放し、自由にしていくということをも示しています。
恵みの年とは、旧約聖書の時代からずっと受け継がれてきている「ヨベルの年」のことですが、ヨベルとは、そもそも雄羊の角のことで、その年が来たことを、角笛を吹いて知らせたことに由来します。当時のユダヤ社会では、6年間土地を耕して種を植え、その実りを収穫し続けたら、翌年の7年目は安息の年としてその土地を休ませ、7年を7回数えた翌年を「ヨベルの年」としていました。旧約聖書のレビ記では「五十年目の年を聖別し、その地のすべての住民に解放を宣言しなさい。それはあなたがたのためのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有の地に帰ることができる。おのおのその氏族のもとに帰ることができる。」(25:10)と記され、ヨベルの年には、貧しさのために売却された土地は元の持ち主に返還され、奴隷として売られていた人は元の家族に戻されることになっていたことから「恵みの年」と呼ばれていました。
私たちの人間社会の中では、神さまから与えられたいのち、人間らしく生きるということが、様々な弊害によって傷つけられ、押しやられていくことが起きてしまいます。人間の欲によって歪められた社会が50年に一度、ヨベルの年に神さまから与えられた本来の姿に戻されていくこと、神さまのいのちを取り戻されていくことが、イエスさまの言われる「主の福音を告げる」ということではないでしょうか。西暦2000年には、「ジュビリー(ヨベルの英語表記)2000」の運動として、キリスト教界や旧約聖書を聖典とする宗教者たちの間で、国際債務の帳消しや、あらゆる戦争・略奪・不和の和解が呼びかけられました。それから20年以上が過ぎていますが、私たちの社会の様々な歪みや貧困、戦争や環境破壊が、人間の欲やエゴによってもたらされています。
弱さを持った私たちは、常に聖書の言葉によって養われ、イエスさまの体と血であるパンとぶどう酒に与ることによって、「主の恵み」を思い起こします。イエスさまは「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われます。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中で特別に「救いが今、実現している」ということを強調する言葉として何度も使われ、ザアカイの家に泊まったイエスさまが「今日、救いがこの家を訪れた」と語られ、ゴルゴタの丘で一緒に十字架にかけられた罪人へ向かって「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。この「今日」は、2000年前の今日でもありますし、未来の今日でもあり、み言葉を聞いている今のことでもあります。預言者イザヤの言葉を忘れないようにと、イエスさまは今の私たちに向かって語られています。
「今日、実現した」というフレーズ、とても素敵だと思いませんか?昨日と違う今日がある、昨日はとても腹が立って、許さない気持ちが強かったのに、夜寝て朝起きて冷静に考えてみると、それほど怒ることではなかったかも知れないと思える経験があると思います。すぐに結果は見えないけれども「神さまの恵みの良い知らせ」に向かって、今日から実現していくという、とても希望のあるイエスさまの言葉です。様々な困難や生きにくさを感じながら現代社会に生きている私たちは、「神さまの恵みの良い知らせ」聴く心を持ち、今度はその良い知らせを周りの人々に告げ知らせていく者として神さまから遣わされているということを再確認ながら、神さまの赦しと解放と自由のために生かされている「ヨベルの民」であることを覚え続けていきたいと思います。
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