司祭 サムエル 奥 晋一郎
イエスさまの到来のために【ルカ3:1−6】
今週の福音書はルカによる福音書第3章1節から6節までの箇所で「洗礼者ヨハネ、悔い改めの洗礼を宣べ伝える」というタイトルがついている箇所です。今回は「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに臨んだ。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(2節−3節)という箇所に注目します。まず、荒れ野は草原、石だらけの場所、砂漠といった、住む人がいない場所、淋しい場所のことです。ヨルダン川地方一帯もそのような荒れ野であったと思われます。1節から2節に登場する政治的・宗教的指導者といった当時のユダヤの国の支配者、上流階級の人たちが住んでいた場所は、大勢の人が住んでいるにぎやかな場所で、豪華な家だったことでしょう。神様はそういった人たちがいる場所にではなく、荒れ野、人が住むのには困難な場所にいて、支配者でもなく、上流階級でもない、身分の低いヨハネに神様の言葉、神様の救いの到来を伝えました。その神様の言葉を聞き、ヨハネは自分自身のみならず、他の人に対しても、心を神様に向けて欲しいと願い、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。さらに、ヨハネは旧約聖書のイザヤ書40章3節−5節を引用して、神様の救いの到来、すなわちイエスさまの到来を人々に伝えました。
この出来事、ヨハネが神様の言葉を荒れ野、ヨルダン川沿いの地方で聞いたこと、これは現在の私たちにも聞かされていることです。神様の言葉は荒れ野でヨハネに臨んだように、私たちも神様の言葉、聖書のみ言葉を礼拝堂で聴きます。私たちにとっての荒れ野、草原、石だらけの場所、砂漠といった、住む人がいない場所、淋しい場所、それは、わたしたち一人ひとりの心です。ことに心の中にある弱さ、コンプレックス、といった、私たちに一人ひとりにとって、マイナスの部分です。決して、私たち一人ひとりが人々に自慢したい部分、誇りたい部分ではありません。わたしたち一人ひとりの荒れ野、すなわちわたしたち一人ひとりの心の中にある弱さに目を向けることによって、受け入れることによって、自らを低くすることによって、わたしたちは、5節に登場する谷、山、丘、まがった道、でこぼこの道のように、厳しい状況に置かれている、弱い私たち一人ひとりの心の中に、イエスさまが来て下さいます。そして、イエスさまは谷、山、丘、まがった道、でこぼこの道のような、私たちの心の中をまっすぐにするように、いやし慰めてくださいます。
このことを覚えるために、わたしたちは毎週日曜日に教会に集い、礼拝を行ない、自らを低くする行いである懺悔、悔い改めを行なっています。懺悔、すなわち悔い改めは、心を自ら高める自己中心から、自らを低くして、心を神様に向けることです。さらに悔い改めることによって、神様がわたしたちにも現れてくださること、共にいて下さっていること、神様の救いがあることを、少しでも実感できます。今週は降臨節第2主日です。この降臨節の期間、今週の福音書の箇所を通して、私たちは一人ひとりに存在する、荒れ野、わたしたち一人ひとりの淋しいところ、暗いところ、弱点、悲しみ、苦しみなど、わたしたちの心の中に、イエスさまが到来してくださり、神様の救いを見ることができることを心に留めたいと思います。そのためにも私たちは自らを低くして、心を神様に向ける、悔い改め、懺悔の祈りをこれからも大切に、丁寧に行なっていきたいと思います。
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