2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日(B年)

 

司祭 アンデレ 松山健作

すべてを神に委ねる「やもめ」【マルコによる福音書12章38−44節】

 マルコによる福音書12章38以下では、やもめを食い尽くす律法学者と生活のすべてを投げる「やもめ」の姿が対比されています。二つの生き方が対比されるわけですが、それについて賽銭箱の向かいに座っているイエスさま一行がいます。イエスさま一行は、誰がいくら投じるかを見ていたのではなく、生活のすべてを神に委ねている人を探すために観察していたのかもしれません。その中でイエスさまの目にとまったのが、自らの生活のすべてを投じる貧しいやもめの姿でした。
 旧約聖書は、このような「やもめ」に対して社会的救済を呼びかけています。「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。」(出エジプト記22章21−22節)けれども、律法学者のふるまいを見ますと、この呼びかけは守られていなかったことがわかります。さらには、その救済の必要な貧しい「やもめ」を食い物にしていました。
 「やもめ」とは、当時の社会において「夫」という生活の基盤を奪われた女性を指します。社会的弱者の代表として聖書では登場し、手厚い保護を必要とします。旧約聖書では、そのような社会的弱者への救済という特別な配慮が呼びかけられていましたが、それを指導する律法学者は自分たちの欲にまみれ、神を神とも思わない生き方をしていました。
 この状況は、2000年前のユダヤ社会だけにとどまらず、私たちの生きる日本社会においても、権力と富のあるところに力が集中し収奪が起こり、欲望のままに生きる為政者の姿に共通しているかもしれません。一方で、貧しく、困窮した状況の社会的弱者はすべてのものを奪われ、抑圧されたままの構造が継続されています。
 しかし、イエスさま、またその弟子たちは、人の力にもはや頼れなくなった「やもめ」に目を注ぎます。すべてを神に委ねるしかなくなった「やもめ」を無視しないのです。イエスさまとは、そのような社会における低みに目を向け働かれる神です。私たちもすべてを委ねる「やもめ」の信仰にならいつつ、またイエスさまが働かれる場に参与する弟子として、この世に遣わされますように。