2024年11月3日 聖霊降臨後第24主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

「全力を尽くして」愛したのは…【マルコによる福音書12:28−34】

 ユダヤ指導層とイエスさまとの議論を聞いていたある一人の律法学者がイエスさまの前に進み出ます。彼は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」(12:28)と問います。その問いへの第一の答えは、神さまは唯一であり、全力を尽くして神さまを愛すること。第二には、自分を愛するように隣人を愛すること。そして、これらは2つで一つのことでした。
 後出の「やもめの献金」が典型的ですが全力を尽くすとは大小多寡に関わらず差し出す、ということです。その意味では、「自分を愛するように」とあるように、「自己愛」すらも差し出すということを意味します。これはあまりに厳しい。とうてい不可能に見えます。しかし、注目したいのは、それを語っているのがイエスさまだということです。どこまでいっても残る「自己愛」は、イエスさまの場合、ゲッセマネでの、「この杯をわたしから取りのけてください」(14・36)に垣間見ることができます。しかし、すぐさま次の言葉に続くのです。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行なわれますように。」 ここで、最後に残った「自己愛」は神さまにささげられることとなります。実際、これからはじまる受難・十字架と復活を通して「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちを愛したのは、イエスさまのほうでした。神さまのほうであったのです。
 私たちが、全力を尽くして神さまを愛し、自分を愛するように隣人を愛することができるかどうかは、わかりません。たとえそのような覚悟を決めた、と言ったところで、実際それが要求される局面において、そのように実行できるかどうかも分かりません。あるいは、自分で決断してから行なわれるというよりも、いつのまにかそのような局面に立たされているのかも知れません。いずれにせよ、イエスさまご自身が、それ故に神さまが、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」私たちを愛してくださった、このことだけは知っておきたい。洗礼の際、イエスさまにあらわされた神さまの無条件の愛が、私たちに向かってここに成就した、ということだけは押さえておきたいのです。「全力を尽くして」愛したのは、まずもって神さまでした。それをイエスさまにおいて実行してくださったのです。そのことを知っていくことが私たちのライフワークですらある、ということを今日みなさまと確認したいのです。