司祭 パウロ 北山和民
「イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。…」(マルコ10章21)
「善い先生、永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と問う人に、イエスは、じっと見なくても金持ちとわかるのに「じっと見つめ、慈しんで言われた」。「慈しむ」はアガペーの関連語が用いられ、深い尊敬、エンパシーを意味する。つまり、めっちゃ忙しい(十字架への)道の途上に、無視していいような金持ちの人との出会いに、イエスは他の出会いと同じ全霊を注いでいるとマルコは記すのです。(私たちの牧会はどうでしょうか)
このイエスの態度に心を潜め、エンパシーしてみた。
「あなたは財や富裕を、律法が言うように神の祝福と信じていたいが、未だ満たされていないのだね。未だわからないだろうが、わたしは自由という名の「あなた」なんだ。わたしのところに来ないか?わたしをあなたの隣人にしてくれないか…。無理?…ああそうか、あなたは自分の財産管理の責任、保身に囚われているんだ、分かち合いこそ「悔い改め・メタノイア」、自由だとわからないのだね、残念!でもあなたは『悩みつつ立ち去って』いくんだ!…ならば今は落胆し不可能に思えても、あなたの知らない隣人のわたしが待っているから大丈夫だ。何故なら、わたしは十字架への道が苦しいけれど、悩み落胆するあなたを分けることのできない半身のように伴いながらこれから頑張って歩んで行こうと確信したんだ。」これがマルコ10章の記すイエス様の態度価値なのです。「イエス様の教え」ではなく、イエス様へエンパシー、即ち尊敬共感し、イエス様の靴(あるなら)を履かせてもらう他者経験へ招く、ヘイトクライムを越える、アガペーの物語なのです。「救われた」と信じ込むより、大切な態度とは、「わかったような態度はやめて、イエス様にエンパシーしてみること。ナザレ人イエスという生きた歴史を今に重ねて、自由の靴を履いてみるチャンスはわたしの知らないすぐ隣でわたしを待っている」と希望をもって礼拝を続けることです。
イエス様はわたしたちを招きます。「資本主義、富は神の不平等の印でもなければ、あなたの幸福信仰の印でもないんだよ。わたしのこの自由さにあなたも来ないかい」と。
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