2024年10月6日 聖霊降臨後第20主日(B年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「神が結び合わせてくださった恵み」

 今週の福音書(マルコによる福音書10:2−9)は、結婚式や聖婚式のクライマックス・シーンで用いられる有名な聖句で結ばれています。「神が結び合わされたものを、人は離してはならない。」
 全ての人がこの言葉を重く受け止め、そのように歩みたいと誓うのですが、結婚生活は、山あり谷ありです。因みに、統計に従えば、日本では、2022年の一年間、約18万組の夫婦が離婚しています。
 イエス様の生きられた時代のユダヤ社会でも離婚の問題はあったようです。ファリサイ派の人々は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」とイエス様を試みるために質問します。彼らは、イエス様の言葉尻を捉え、律法に背く者として落とし入れようとしていました。イエス様は、そんな彼らの本心を見抜き、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。すると彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と答えます。この返答に、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」、イエス様はこう言われた後、創世記2章の天地創造の初め、神様が人を男と女にお造りになった箇所を引合いに、心の頑なな彼らに言われます。「神が結び合わされたものを、人は離してはならない。」
 今日でこそ、離縁状さえ書けば夫は妻を離縁できる、というこのような規定は女性に対する酷い差別に思えますが、当時は男性(夫)の立場が圧倒的に優位な社会でした。ただ、この「離縁状」には、この人はすでに夫のある身ではないことを証明する意味もありました。離縁状を持っていれば、他の男性と結婚しても姦淫の罪になりません。だから、離婚した女性の立場を守るという役割もあったのです。ファリサイ派や律法学者たちは、離婚について語る聖書の言葉を熟知し、解釈を駆使できる、謂わば、エリート階級でした。しかし、イエス様の時代、ファリサイ派や律法学者たちが主に議論していた事柄は、妻を離婚する理由とは、法的にどんな事柄であるか、そのようなことばかりでした。そのような彼らに対し、イエス様は、言われたのです。あなたがたは聖書のどこに何が書いてあるかはよく分かっているかも知れない。しかし、あなたがたは聖書から主なる神様のみ心を読めていないのではないか。彼らの読めていないこと、それは、結婚や夫婦についての神様のみ心でした。離婚のことを議論するためには先ず、結婚のことについての神様のみ心を、聖書の中に見つめなければなりません。イエス様は、そのために彼らファリサイ派や律法学者たち、そして彼ら同様、頑なな心のわたしたちに教えてくださったのでした。聖書を読むことは、神様のみ心に生きるためであることを、です。創世記2章には、人が男と女に造られていることに対する神様のみ心が語られています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
 神様のみ心とは、人間は独りで生きるべきものではなく、自分に合う助ける者と共に生きることです。結婚イコール子孫を遺すことではありません。人の男と女は、お互いの交わり、共に生きることが目的であると伝えています。「彼に合う助ける者」。この言葉には「向かい合う」という意味があります。対等の者、お互いに顔と顔とを向かい合わせながら共に生きる者です。人は、自分と向き合い、助け合い生きるパートナーと共に生きるべきものである、この神様のみ心によって、人は、男と女として造られ、一人の男と一人の女が結婚して家庭を築いていく、そのことが人の生きる道とされています。しかも、そのように向き合い共に生きる相手は、神様からの恵みから与えられたものだと語られています。
 神様は先ず野の獣や空の鳥を造り、人のもとに連れて来ます。しかし、動物たちの中に、真の相手は見つかりませんでした。そこで、神様は人(男)を眠らせ、あばら骨の一部を取って、彼に合う助ける相手(女)を造ります。「ついに、これこそわたしの骨の骨、肉の肉」。これは、自分が向かい合い、共に助け合い生きる真実の相手が見つかった感動の叫びでした。結婚の相手が与えられるということは、神様からの大きな恵みです。だから、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と語られているのです。このように、聖書の原点でいう結婚とは、二人が神様の恵みによって出会い、互いに向き合い助け合う交わりに生きることなのだと思います。
 「だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」のです。
 ところが、わたしたちは根源的に心の頑な者です。山あり谷ありの結婚生活は、いつも思い通りにいくとは限りません。人は、相手と真剣に向き合い、共に助け合い生きることがなかなか出来ないものです。多くのカップルが、経験するはずですが、共に暮らしていると、それぞれの性格や生活習慣、価値観、また生きてきた環境の違い、お互いの親との関係などなど様々な事情から、「こんなはずではなかったのに…」という思いも頭をもたげてきます。正直、このような説教文を書いている私自身、たびたび夫婦喧嘩をしてしまう者です。
 日常的に誰でも起こる夫婦喧嘩、すれ違い、また離婚の危機…望ましいのは、このような時こそ、神様のみ心の原点に立ち返り、神様の結び合わせて下さった有り難い恵みを思い起こし、神様に感謝する心が必要なのでしょう。
 実に、お互い異なる両親から生まれ、ある時、結ばれた二人が一つとなる結婚は、不思議であり神秘的です。神様からどれほど祝福されたものであるかを覚えたいものです。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
 最後、今日の福音のみ言葉は、離婚の是非、善悪などを語っているのではありません。わたしたちが結婚についてどのような思いでもって、相手と共に生きるべきであるかについて語っていると思います。更に、このみ言葉は、今日、結婚だけに限定して語られてもいないと読めないでしょうか。わたしたち人は互いに向き合い、助け合い、交わりに生きることこそ神様のみ心である・・・そのことをも教えているように聴こえます。