司祭 マタイ 古本靖久
今日の福音書(マルコによる福音書9:38−43,45,47−48)には、ヨハネという人物が登場します。彼は12弟子の一人で、ペトロやアンデレ、また兄のヤコブと共に漁をしているときに招かれた人物です。彼とペトロ、ヤコブは12弟子の中でも、イエス様の近くにいた人物でした。
さてある日、そのヨハネがイエス様の元に「先生!」と言いながら駆け寄ってきたと聖書は書きます。そのときの様子ですが、きっとヒソヒソ耳打ちするように、という感じではなかったように思います。そうではなく、「先生!」と胸をはり、肩をいからせてやってくる。彼には「雷の子」というあだ名がつけられていました。まるで稲妻が「ゴロゴロ」と鳴り響くように、彼はイエス様に「先生!」と語りかけるのです。彼はきっと、意気揚々とやってきたのではないでしょうか。それはなぜか。彼はきっとイエス様に、褒めてもらえると思ったからです。正しいことをした自分を、「よくやった」と認めてくれると思ったからです。
ではその「正しいこと」とは一体何だったのでしょうか。それは、イエス様の名前を使っていながら、自分たちに従おうとしない人たちをやめさせた、ということです。イエス様の名前は特別なものです。それを聞くだけで、悪霊も逃げて行ったかもしれません。でも順序が違うだろうと。それならまず、わたしたちに話を通せ。使用許可を得ろ。勝手にするな。様々な思いの中で、ヨハネはそれを妨げようとします。そして「よくやった、偉いぞ」という言葉を欲したのです。しかしイエス様は、「やめさせてはならない」、「彼らはわたしたちの味方だ」と返されるのです。
偉くなりたい、大きくなりたい。その思いはわたしたちの中にもあるかもしれません。このマルコ福音書ですが、この箇所に至るまでに、このような出来事が書かれています。まず先ほどもお話ししたイエス様のお姿が変わったという出来事、そして汚れた霊に子どもをいやされたあと、イエス様は二回目の受難予告をなさるわけです。
「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。しかしイエス様が十字架の予告をされた直後にヨハネを含む弟子たちは、「誰がこの中で一番偉いのだろうか」と議論していたというのです。偉くなりたいのです。大きくなりたいのです。
偉くなりたい、大きくなりたい。しかしヨハネの心の中には、それだけではない別の思いもあったはずです。それは、「このままでわたしはどうなるのだろうか」という思いです。
ヨハネはイエス様から、十字架の話を聞かされました。自分たちは小さな、小さな集団です。イエス様が言われるように十字架に行ってしまわれたら、自分たちはどうなるのか。その名も消され、存在もなくなってしまう。小さなままでいることが、怖かったのです。
イエス様はしかし、ヨハネの思いを否定されます。そして「小さな者の一人をつまずかせるよりは」と地獄を引き合いに出しながら、話を進めていかれます。さてここで、聖書を読むときに忘れてほしくないことをお話しておきます。それはこういうことです。聖書とは愛の書物であって、わたしたちを裁くために書かれたものではないということです。聖書はわたしたちを滅びに導くのではなく、いのちへと招き入れる書物なのです。
神さまはわたしたちを滅ぼしたいのではなく、生かしたいのです。その愛の中に、招き入れたいのです。わたしたちがどれだけ罪を犯し、その中でどれだけ多くの「小さな人たち」をつまずかせようとも、わたしたちの罪を削ぎ落しながらも、わたしたちを「いのち」に招き入れられるのです。小さく、本当に小さくされ、神さまに頼るしかない、すべてを委ねるしかなくなったわたしたちを導いてくださる。いや、小さくなったからこそ、わたしたちは神さまの元へと招かれるのです。
小さくされ、神さまに頼るしかないわたしたちです。委ねるしかないわたしたちです。でもだからこそ、つまずきから守ってくださる。そして命を与えて下さるということをいつも覚えていきたいと思います。
神さま、感謝いたします。
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