執事 サムエル 藤井和人
「神の国」の目撃者
今日のマルコ福音書では、イエスさまがティルス地方からガリラヤ湖にやって来られたときのエピソードが語られています。7章32節を見てみますと、そこである人々が、一人の仲間をイエスさまのところに連れて来たのだと言います。その仲間は、耳が聞こえず舌の回らない状態でした。人々は、この仲間に手を置いてくださるようにイエスさまにお願いします。人々は、どのような想いでそのような行動に出たのでしょうか。聖書には詳しく語られていませんが、おそらく目の前で苦しんでいるその仲間を何とかして助けたいと思ったからなのだと思います。
7章33〜35節を見てみますと、そこでイエスさまは、その人の両耳に指を入れ、それから唾をつけて舌に触れられます。そしてその仲間に向かって「エッファタ」(「開け」という意味)と言われると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解けて、はっきり話すことができるようになったのだと言います。
イエス様によるこのような宣教活動は、目の前に苦しんでいる人の病をいやすことと同時に、その人を通して「神の国」が到来したことを人々に告げ知らせるためでした。耳の聞こえなかった人にとっての「神の国」の到来とは、病が癒されることだけでなく、その出来事を通してイエス様と出会った、まさにその喜びの瞬間のことだったのでしょう。
そして、その仲間をイエスさまのところに連れて来た人々もまた、この出来事をはっきりと自分たちの目で見た、いわば「神の国」の目撃者となりました。7章36節を見てみますと、人々は、イエスさまに口止めされたにも関わらず、この出来事を他の人々に言い広めていったのだとあります。
今日のマルコ福音書で、耳の聞こえない仲間をイエスさまのところに連れて来た人々がそうであったように、今日このみ言葉を聞く私たちも「神の国」の目撃者となります。
時につらく悲しいことがありますが、けれども、私たちの普段の日常生活の中に、神の国の到来を告げ知らせる喜びの瞬間が確かにあるのだと思います。愛する人と再会できた瞬間、み言葉に触れて、 イエスさまが今ここにおられると実感できた瞬間など、それら喜びの瞬間に、私たちは「神の国」を垣間見ます。
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