2024年8月25日 聖霊降臨後第14主日(B年)

 

司祭 マタイ 出口 創

どの程度信じて知っていますか?

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネによる福音書6章68−69節)

ヨハネによる福音書6章の、新共同訳聖書の小見出しは、「5000人に食べ物を与える」、「湖の上を歩く」、「イエスは命のパン」と続き、「永遠の命の言葉」で締めくくられています。神でなければ実現不可能な奇跡(ヨハネによる福音書は「しるし」と表現しています)の数々を、イエスさまは人々に示しましたが、それは「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受ける」(ヨハネによる福音書20章31節)ためです。ところがこれらの奇跡に満足してしまい、またイエスさまの教えの非常識さに憤慨した「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(ヨハネによる福音書6章66節)のです。そこでイエスさまが12人の弟子たちに「あなたがたも離れて行きたいか」と問うのですが、それに対するイエスさまへの答えが、冒頭の引用箇所です。

ですがこのときイエスさまはまだ、十字架につけられるために逮捕すらされていません。十字架の死と復活、昇天と聖霊降臨よりも、はるか以前の段階です。シモン・ペトロは、一体、イエスさまの何をどのように、信じ、また知っていると言ったのでしょうか。「このイエスという方は、ちゃんとは理解も把握もできないけれども、どうやら『神の聖者』としか言えないような、とても神的な方のようだ」という感じの、信仰、理解だったのではないかと思います。そしてイエスさまと旅路を共に歩む中で、イエスさまは神の子メシアであることを、少しずつ体験しながら、信じ、知り、誤解や勘違いがあれば訂正してもらったのではないでしょうか。

わたしたち日本聖公会は『祈祷書』という本を用いて礼拝しています。傍から見ればそれは、毎回毎回、同じ本を朗読しているだけかもしれません。でもそれは、同じ本の同じ文章を毎回毎回唱えながら、唱え祈っている内容を体に染み込ませている訓練、または「旅路」とも言えるものでもあるのです。わたしたち信仰者は、イエスさまをどの程度信じて知っていますか? 個人差は当然あります。熱意も意識の高さも、当然個人差があります。それでもなお、違いを抱えながら、イエスさまを信じ、知る「旅路」を共に歩んでいる共同体が「教会」なのではないでしょうか。

「主よ、教会はただ主の助けによってのみ健全に立つことができます。どうか絶えることのない助けをもって主の教会を清め守り、恵みと力によっていつまでも堅く保ってください」(特定16の祈り)。