司祭 ルカ 柳原健之
8月11日、特定14の聖書日課ではヨハネによる福音書6章37節から51節が読まれます。6章では「命のパン」をテーマとして物語が進んでいきます。男たちだけで5千人もの人を5つのパンと2匹の魚で満たされたイエスを群衆たちは追っていきます。イエスはご自分こそが命のパンであることを証しされていますが、人々はお腹を満たすパンをイエスに求めていく、そのようなちぐはぐな会話が繰り広げられます。
イエスは、「わたしはいのちのパンである」と宣言され、「天から降って来た」ことを打ち明けておられます。「わたしは〜である」とは、イエスが、ご自分が神のもとから来られたことを言い表す大切な言葉です。そしてその目的は「神の御心を行うことであり、それはわたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」と告げられています。神は特定の人々だけを救おうとされているのではなく、全て人を包み込もうとされており、それを成し遂げに来たのであると、神のご計画を明らかにされているのです。しかし、その言葉を聞いた人々は、「ヨセフの息子でどうして天から降って来た」と言えるのかと言い放ちます。イエスの出生を知っており、そのことに捕らわれているため、正しく見ることが出来ないのです。
また、イエスは「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とも宣言されています。ここで登場する肉とは、ご自分の体のことを指し、十字架による死を意味しています。また、聖餐式におけるパンを意味もしています。ご自分の死、そして復活する命としてのパンを与えることを宣言しておられるのです。しかし、またもやその言葉を聞いていた人たちは「自分の肉をどうして食べさせることが出来るのか」と、現実の肉体しか見えていないのです。
イエスはご自分が人々を救う命のパンであることを打ち明けてくださっています。たとえどれだけ否定する人々がいようと繰り返し伝えてくださる方です。真実な方を信じて救いに与っていきたいと思います。
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