2024年7月28日 聖霊降臨後第10主日(B年)

 

司祭 エッサイ 矢萩新一

 今日の福音書(マルコによる福音書第6章45−52節)は、弟子たちが湖の上を歩くイエスさまを見て、幽霊と間違えた有名な物語です。肝試しが似合う夏の季節にこの箇所が読まれるのは偶然だとは思いますが、人間の思いこみや想像力は、はかり知れないことを思わされます。昔から私たちの人生はよく船旅にたとえられますが、しばしば教会は荒波を行く船になぞらえられます。荒波に浮かぶ十字架の付きの船はWCC・世界教会協議会やNCC・日本キリスト教協議会のエキュメニカルな教会のシンボルとしても使われています。そんな十字架付きの船の船長は言うまでもなくイエスさまです。日本は四方を海に囲まれていますから、なお更このたとえやシンボルを受け入れやすいのかも知れません。順風満帆という言葉は、追い風で船の帆が風を満杯に受けて進む様子からきていますから、水の上を行く船を人生にたとえるのは、教会だけではなく、世界共通のイメージだということでしょう。私たちの人生はいつも順風満帆で、静かに前進している時もあれば、勢いよく加速するときもありますし、逆風が吹き荒れることも、横風で大きくそれてしまうこともあります。
 今日の福音書で、イエスさまは弟子たちを強いて船に乗せ、向こう岸に行かせたと記されています。荒波が襲って来ることを承知で、あえて弟子たちを船に乗せました。弟子たちは夕方から明け方まで荒波にもまれ、漕げども漕げども向こう岸のベトサイダにたどり着けません。そんな様子を見ていたイエスさまは、弟子たちの乗る船に近付き、助けに行かれたはずが、なぜかその側を通り過ぎようとされたと記されています。もし弟子たちが気付かなければ、イエスさまはそのまま通り過ぎていたのでしょうか。危機的な状況の中にあるとき、側を歩いておられるイエスさまの存在に気付けるかどうかが試されているのかも知れません。弟子たちは見事、イエスさまらしき存在に気付きましたが、あまりにも現実離れした登場の仕方に驚き、幽霊だと見間違えて恐れてしまいました。しかし、イエスさまはそんな弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られます。
 危機的な状況にあったときの、弟子たちとイエスさまの居場所とその状況に注目します。弟子たちは荒波にもまれていた時、イエスさまは山で祈っておられました。湖の上で荒波に気を取られ、心を奪われている弟子たちには、恐怖と不信仰がありました。一方、陸地の山で祈りの中にあったイエスさまには、静けさと安心がありました。この世を船旅する私たちに、神さまへの「祈りと信頼」こそが、私たちに心の安らぎを与えてくれる事を教えています。
 一旦海に出てしまいますと、すぐに引き返すことはできませんし、自然現象である悪天候は、すぐに治まるのか、まだなお激しくなるのかは、素人目にはなかなか判断がつきません。今でこそ、気象レーダーがあって天気が予報できますが、その天気予報もいつも正確だとは限りません。また、経験のある方はわかると思いますが、一旦船酔いをし始めますと、陸に上がるまではどうしようもなく、そこから逃れたいと思うだけで出口が見えない絶望感に駆られます。人生の荒波も同じです。深い悲しみや困難な状況に遭遇した時、「なぜ自分だけがこんな目にあうのだろうか」「早く何とかして欲しい」と思うばかりで、何もできない自分にひたすら耐えるしかない状態に陥ってしまうことがあります。そんなときには、周りの状況が見えず、自分のことばかりが気になって、祈ることすら忘れてしまいそうになります。
 しかし、困難な状況から抜け出し、港に戻って陸地に上がり、しばらくの時が経つと、どうやって困難に対処できたのかはあまり良く覚えていないけれど、何となく穏やかな出口へと導かれた不思議な力の存在を認めざるを得ない経験をすることがあります。艱難な状況から抜け出せるのは、数日後あるいは数年後、何十年後かも知れません。抜け出したことさえ気づかないことがあるかも知れません。私たちが過去を振り返るとき、意味のない出来事は何一つ無いという事に必ず気付かされます。それは、復活のイエスさまに出会う経験です。助言をくれた人、何も言わず側で寄り添ってくれた人、困難な状況を自分に投げつけた人でさえ、復活のイエスさまであり得るのかも知れません。イエスさまによって恐れが取り除かれ、目が開かされる驚きで、改めて感謝の思いがわき出てきます。しかし、この不思議なイエスさまの業に驚くのは、心が鈍く、かたくなになっていたという証拠であると、今日の福音書は教えています。
 私たち人間は、人生の荒波にほんろうされ、惑わされ、本当の事が見えなくなってしまいます。そんな時、イエスさまは思いもよらない方法で私たちの側に近寄り、手を差し伸べて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださっていることを覚えたいと思います。私たちは人生の船旅を行く旅人です。その旅の歩みが重く困難な時にこそ、イエスさまが側に来てくださることに気づき、共に船旅をする仲間を求めて、教会の交わりへと導かれました。私たちはこの世の様々なことにとらわれ、心を乱されて損得勘定に走ったり、隣人と自分を比較したりしながら生きています。私たちは人生という航海のプロではありません。だからこそ教会に集められ、互いに補い合い、鈍った心を神さまの言葉に照らし、聖餐において強められて、再び荒波へと派遣されて行きます。教会という船を正しい道へと導くのはイエスさまです。私たちは自分の力で、順風満帆に航海していると勘違いをしてしまい、そんな時には人を裁いてみたり、他人の弱さを非難したりしたくなります。いざ荒波にもまれると、何もできない自分にいら立ち、深い闇が襲ってくるような恐怖にとらわれてしまいます。そうではなく、人生の船旅を神さまのみ心へと導いてくださるイエスさまに信頼して従う心を常に保たせてくださいと祈る者でありたいと思います。私たちには、迷走する船の軌道を修正できる場所、いつでも立ち帰って燃料を補給できる所、弱い自分自身を受け入れてくれる港がここにあることに感謝しながら、そんな共同体をこれからも、作り続けていければ素敵だと思います。