2024年7月7日 聖霊降臨後第7主日(B年)

 

司祭 ヨシュア 大藪義之

つまずく 〜自分勝手な思い込みでコケないように〜

 ずっと昔からファンだった俳優が、スキャンダルを起こして、すっかり熱が冷めてしまう。また身近にいて尊敬し憧れていた人が、心無い行いをしているのを見てしまって、その時からまったく反対の思いが心を支配してしまった。そんな経験が皆さんにもあるのではないでしょうか。
 「ナザレで受け入れられない」と題された今日の福音書は、イエス様が方々で数々の奇跡の業を行い、会堂での教えに人々が驚き、讃えられる中で故郷に帰られた時のある安息日の出来事です。
 会堂でのイエス様の話す様子を見て、故郷の人々がざわつき始めます。ナザレの町でよくよく見てきたヨセフとマリアの息子、大工として働いていた「あのイエス」がすっかり変わってしまって、奇跡を起こし、権威ある教えを話している…。故郷の人々はその変貌ぶりにすっかり戸惑ってしまいました。
 「こうして人々は、イエスにつまずいた。」とマルコは記しています。この「つまずく」という言葉の原語(ギリシア語)は「σκανδαλιζω(スカンダリゾー)」で、これは「σκανδαλον(スカンダロン)=罠」という名詞が動詞形になったもので「罠にかかる・落とし穴にはまる」を意味しています。これが聖書の中では、一つは@「罪への誘い・偽りの信仰へ導く誘惑」を意味し、これが「罪に落とす・不信仰へと転落させる」という用いられ方がされています。もう一つはA「怒りや嫌悪を引き起こすもの」となり、これが「怒らせる・憤慨させる・いらだたせる」という意味になります。
 今日の福音書で、故郷の人々が抱いた感情は、このAの感情をまず抱いたのではないでしょうか。そしてそのAの感情は「そして、人々の不信仰に驚かれた」とあるように@の意味に変えられていったのではないでしょうか。
 「スカンダロン」「罠」という意味ですが、イエス様が故郷の人々に「罠」を仕掛けられたのではなく、むしろ過去にじぶんが知り得たイエス像を、会堂で語るイエス様に押し付けたがゆえに、自分自身で「罠」陥った、ということができるでしょう。自分で勝手造り上げたイメージを人に押し付ける時、そのイメージから離れる事ができずに自らその「罠」に陥ってしまいます。自省も含めて気を付けたいものですね。

 余談ですが、この「σκανδαλον(スカンダロン)」という言葉を何度も繰り返しているうちに、冒頭の「スキャンダル」という言葉がふと浮かんできて、これを調べると『「スキャンダル  異性交遊、非難、中傷、恥辱、不名誉. scandal の語源 scandal (n.) 1580年代、「名声に傷をつけること」として使われ始め、フランス語のscandale 、遅れてラテン語の scandalum (怒りを引き起こす原因、つまずきの石、誘惑)、そしてギリシャ語の skandalon (つまずきの石、不快なこと、敵に仕掛ける罠やわな)から来ています。」(etymonline)』とありました。

 東京教区聖アンデレ主教座聖堂講義 主日の福音に聴く ―日本語で原典の意味に触れる― もご参考に