司祭 クレメント 大岡 創
今日の福音書(マルコ4:35−41)は自然の驚異の前になす術を持たない弟子たちがイエスさまを通して働く神さまの力を目の当たりにする出来事を伝えています。
夕暮れ時、弟子たちはイエスさまの促しに従い、ガリラヤ湖を渡ろうとしていました。突然に天候が変わり、突風のために湖は大しけになりました。弟子たちは身の危険を感じ、眠っておられたイエスさまを必死で起こします。起き上がったイエスさまは風を叱り、荒れ狂う湖を静かな凪の状態にまで戻されたというのです。
旧約聖書では「神さまだけが嵐を起こし海に境界を設けることができる」と記されています。 苦難を身に受けたヨブは神さまの思いを計りかね、問いかけた時、神さまは嵐の中から応えられました。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか」(ヨブ38:4)と。
私たち人間に何ができるというのでしょうか。ほとばしる海の勢いに限界を定め、高ぶる波を静めることができるのは神より他はないというのです。しかしながら弟子たちはこの時、イエスさまを本当は誰か十分には理解していなかったようです。この方に何かが出来るかもしれないという期待が心の中を支配していました。しかし尚、彼らの内に疑いがあって、委ねるどころか想定外の出来事にパニックになるほかはありませんでした。
一つの思考回路しか働かない。思い込みのまま前に進もうとする。経験や自分の中にあるマニュアルにはない事柄に遭遇したときというのは「もろい」と良く言われます。こういう時というのは放って置くとどんどん状況は悪くなります。心の備えが出来ていない状態でいきなり自分たちの「弱さ」を突きつけられた状態だというのでしょうか。彼らのイエスさまへの叫びは言うなれば「人の持つ危うさ」や「弱さ」を分かりつつも、そのような「果敢なさ」から救いを求めた叫びでもありました。その彼らを「何故、怖がるのか。まだ信じないのか」とイエスさまは叱責されます。
私たちの教会も、イエスさまが乗っておられる舟であります。礼拝堂はノアの箱舟であるとも言われます。にも関わらず、自分たちから騒ぎを大きくしていることがあったかもしれません。
しかし、どのような時代であっても、どんな状態に置かれたとしても「私たちのうちに主がおられることを本気で信じる」ことだと言うのです。また、イエスさまが眠っておられるように感じるようなことがあれば、堂々と恥ずかしがらず「主よ、来て助けてください」と叫んでもいいよ、と言ってくださっておられるのではないでしょうか。
わたしたちは大自然に比べれば砂粒のような小さな存在です。その小さな人間たちの考えや、言い分などに注目するばかりでなく、もっと大きく、神さまの声なき声に心の目を傾けながら、様々な困難や不安の最中にあっても、神さまに近づこうとすること、そのような時こそ、神さまへの信頼に力強く生き抜くことが出来るように心掛けたいものです。
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